出版社勤務を経て医師になったという著者の異色の経歴にまず興味を惹かれた。
医療の現場を知る者ならではの視点と、編集者として物語を組み立てる力が同居しており、読み進めるほどにその独特の筆致が際立つ。
本書は、むさし訪問クリニックの水戸倫子医師と看護師・コースケが共通して登場する五つの物語から成る。「訪問診療」という、患者の生活に深く入り込む医療の現場を舞台にしており、医療と福祉、家族、孤独、そして“善意のかたち”が複雑に絡み合う。
「沈黙の患者」「ニセの語り部」
認知症の母を“レンタル”し、介護保険を不正に利用するという衝撃的な事件から物語は始まる。さらに、自分の戦争体験ではないのに「語り部」として語り続ける行為は犯罪なのか――という倫理的な問いも投げかけられる。沈黙の奥にある「語れない事情」と「語ってしまう弱さ」が、静かに浮かび上がる。
「王子様の不親切」
訪問看護のリハビリだけのはずが、患者からクレジットカードの番号を読んでほしいと頼まれる。表面だけでなく裏面の3桁まで。医療者が直面する“境界線”の曖昧さ、善意が悪意に変わる瞬間の危うさが描かれる。
「夕暮れの善意」
こども食堂に女の子を連れてくる老人。甲斐甲斐しく世話を焼く姿は一見すると優しい祖父のようだが、別の日には違う女の子を連れてくる。善意なのか、孤独の埋め合わせなのか、あるいは別の意図なのか。生活の影が胸に残る。
「シル専の女」
年齢の離れた男女の関係は後妻業かと思わせるが、どうも様子が違う。高齢男性を手玉に取る事件は時折耳にするが、早朝から朝食を作り、優しく寄り添う女性の姿には、単純な「詐欺」の言葉では片づけられない複雑さがある。人は誰しも、孤独の中で“優しさ”にすがりたくなる瞬間があるのだと感じさせられる。
■目次
沈黙の患者
ニセの語り部
王子様の不親切
夕暮れの善意
シル専の女
■著者紹介
南 杏子さん
1961年徳島県生まれ。日本女子大学卒業後、出版社勤務を経て東海大学医学部に学士編入。卒業後は慶應義塾大学病院老年内科などで勤務。2016年『サイレント・ブレス』でデビュー。医療現場のリアルと人間の弱さ・強さを描く作風に定評がある。
