小説の書き始めが大事。次の頁を読みたくなるような印象に残る文章であった。
中学二年の時、初めて本当に死のうとした。つまり、初めてあいつに会った。そのことをあとであいつに言うと、「お前が死にたがるのは俺のせいなんかじゃない。お前の意思だよ。」
生きることと死ぬことの背中合わせ、父親や母親の家族との間の葛藤、生徒と先生がいた学校での数々の出来事、不思議な建物のなかで女の子との出会い等々。
希死念慮に取り憑かれた少年には、これらはまるで夢のようで、まるで幻のような現実であった。
本人にしか見えない死神、あいつの姿や本人しか聞こえてこない助言の描写などから、著者本人の過去の体験に基づいて書かれた小説ではないかと錯覚させられた。
全体を通して随分と研ぎ澄まされた感性で描かれた筆力があったと思う。
31P
「言ったよな。俺がお前を殺すんじゃない。お前自身の意思で死ぬ。作家になるから生きられて夢が叶わなければ絶望して死ぬ、というわけでもない。何を考えて、どんな人生を歩もうが、自殺という死に方からは絶対に逃れられない。逃れる必要もない。お前の意思、なんだから」途端に消え、強い風が吹きつけ、屋上に一人だった。夕闇だった。
77P
「死神って、生身なの?皮膚を切ったら血が出る?汗は?」
「出ない。」袖をまくり腕を叩いてみせ、「この内側には何もない。というより外側も内側もない。いまお前が見てるのはあくまで人間の前に現れる便宜的な姿であって、本来の姿じゃない。」
「じゃあその本来の姿に戻れば、血も汗も、涙も流れるの?」
「言い間違えた。本来の姿なんてものはそもそもない。俺たちに、本来なんてものはない。そんな人間みたいな、あるべき姿だとか本当の自分だとか、あと、そうだな、帰る場所なんてものも。行き着く場所も。」
「てことは、いま僕に見えているあんたは、いったいなんだ……」
田中慎弥さん
1972年山口県生まれ。山口県立下関中央工業高校卒業。2005年「冷たい水の羊」で第三七回新潮新人賞を受賞し作家デビュー。08年「蛹」で第三四回川端康成文学賞受賞。同年「蛹」を収録した作品集『切れた鎖』で第二一回三島由紀夫賞、12年「共喰い」で第一四六回芥川龍之介賞、19年『ひよこ太陽』で第四七回泉鏡花文学賞を受賞
