(前回の続き)
(今回のブログには、グロ描写がいくらか登場するのでご注意を)
フランツ・フォン・ツァールハイムの場合 他
展示ルームBはAのさらに奥に入ったところにあるが、細長い展示ルームをふと見ると後ろの方にガラスケースが見え、中には首らしきものがあるのが確認できる。「あ、あれだな」と思いつつ歩を進めていった。ルームBは18世紀前半のバロック時代頃の犯罪や裁判の状況の説明が展示されていた。この時代には既に、殺人事件の凶器が証拠として保存されるようになり、このルームでその当時の物が見学できる。また、展示場のすぐ手前のガラスケースには、黒く錆びついた拷問道具類の上に、斬首刑に使われたと思われる真っ直ぐの大きな刀が横たえられている。
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ハプスブルク帝国下のウィーンでは、この時代にはすでに、中世に一般的に行われていたような余りにも残酷な拷問や刑罰が忌避され、人道的で寛容な方向へ転換しつつあった。ところが1786年、そんな流れに反して、再び残酷且つ凄惨な公開処刑が行われてしまった。
フランツ・フォン・ツァールハイムは、過去にウィーン市長を務めた親せきもいるほどの、身分も高く有力な家庭に育ち、当人もウィーン市の役所で働くお役人となった。ところがこのツァールハイムは、若いうちから賭博や愛人に大量の金をつぎ込む自堕落な生活を続けていた。犯行当時の年には、ツァールハイムは年400グルデンを稼いでいたというが、これだけあれば、当時一家族が細々ながら十分暮せて行けたという。だが、遊び人の独り者であったツァールハイムは、常に金欠状態に苦しんでいた。そこで彼はあるとき、裕福そうな年上の独身女性を探し出して近づきになり、自らの借金返済の助けを求めることを試みた。これを断られると、ツァールハイムは女性の住居の鍵を盗み出し、アパートに忍び込んで現金や債券を盗み出した。空き巣に気付いた女性は、ツァールハイムの仕業だと考え、彼の住居にのり込んで、屋根裏のチェストに盗まれたものが入っていないか探した。その間に、ツァールハイムは女性に後ろから襲い掛かり、ナイフでのどをかき切って殺害後、チェストの中に遺体を隠した。だが、ツァールハイムは間もなくして逮捕され、強盗殺人の罪で「車輪」刑による死罪及び貴族の称号剥奪を賜り、1986年3月11日に執行された。死刑が執行された広場は、現在オーストリア国防庁内に位置している。
中世頃の様々な文献を読むと、この車輪刑がたびたび登場する。一体これはどんな刑なのかさっぱりわからず、長年謎のままだったので、今回いろいろ調べてみた。 車輪刑
(注。刑の様子の絵画をご覧になりたい方のみどうぞ)では、馬車に使うような大きな木製の車輪に、鉛の重石をつけたりギザギザのへりを外側につけたりしたものと、もう一回り大きな車輪が用意される。まず、受刑者の手足を広げ、地面に置かれている土台に縄で括り付ける。それが終わると、死刑執行人は重りのついている車輪を持ち上げ、受刑者の四肢の上に勢いよく落とし(落とす回数は決められている)、車輪のへりで手足の骨を折っていくのだ。すね、太もも、腕、二の腕、といった具合に四肢を全て破壊したあと、最後に首や心臓のあたりを一撃して止めを刺す。
フランツ・フォン・ツァールハイムの場合は、後悔の念が見られたことに免じて、通常通り「下から上へ」車輪を落とすのではなく、最初に「とどめ」の方からと「特別な配慮」がなされたという。ツァールハイムは、おそらく最初の一撃で死亡してしまったものと思われる。このあと受刑者の体は、一回り大きな別の車輪の軸にぐにゃぐにゃになった手足を編み込むようにからませられ、それを高い杭のてっぺんに固定される。そのあと、死刑執行人が首をはねたり、細紐で首を絞めたりすることもあったが、車輪がそのまま放置され、受刑者の死を待つこともあった。車輪の乗った杭の下で火を焚いたり、車輪がそのまま日に放り込まれる場合もあったという。
この刑罰の歴史は古く、聖カタリーナが4世紀ごろに車輪刑にあった最初の人物と言われている。しかし、受刑者の手足を打ち砕くのに、なんでわざわざ車輪を使うのかよく理解ができない。一説によれば、大昔に刑罰として、重い荷物を積んだ馬車で犯罪人をひき殺したことの変化形だとも言われているようだが。実際フランスでは、車輪刑といえば、車輪に体を括り付けた受刑者の手足を鉄棒やハンマーで砕いてくのが一般的だったようで、映画「パフューム ある人殺しの物語」を見れば、少女連続殺人を犯した主人公が、車輪刑とよく似た刑罰を受ける(直前で助かる)様子が再現されている。
またもう一つ、このツァールハイムの事件がオーストリアの犯罪史的に重要なのは、すでに上述した通り、ハプスブルグ帝国下で長らく事実上停止となっていた公開処刑が、このツァールハイムの件をもって逆戻りしてしまったことからだ。ツァールハイム(1753~1786)は、楽聖と呼ばれるモーツァルト(1956~1791)とほぼ同時期に生きたのだが、その当時の皇帝ヨゼフ2世は刑法上の大きな改革を行ったことで有名である。ヨゼフ2世はこの時代には既に死刑反対を公言し、皇帝の位につく直前に死刑を事実上停止してしまった。1781年3月から、一般には公表されなかったが、死刑の宣告を受けた犯罪人の死刑執行は保留に、1793年からは死刑宣告も行われなくなり、死刑や残酷な刑も廃止になり、わずかな例外を除いてすべてが監獄刑となった。ところが、ツァールハイムは残念ながら例外となってしまったようだ。さすがの皇帝にも、この事件は理不尽で非難されるべき強盗殺人で、その上犯人が身分の高い役人ということから、慈悲を得られなかったらしい。
(注)リンクはWikiのドイツ語項目。「車輪刑」には日本語項目もあるが、そちらはフランスの車輪刑の記述が中心で、ドイツやオーストリアで執行されていたものとは違っている。誤解を招く恐れがあるので、ドイツ語のリンクを載せた。
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当然のことながら、これでオーストリアの死刑の歴史が終わったわけではない。ツァールハイムの展示が終わると、その先には、例の死刑囚の首のミイラがガラスケースに入って展示されているのだから。これは、フランツ・ヘーベンシュトライトという革命思想家の首である。1789年のフランス革命勃発後、先ほどの皇帝ヨゼフ2世の時代に、ヘーベンシュトライトと他の一派はフランス革命の思想に影響され、ウィーンにおけるジャコバン党を形成していた。彼らはフリーメーソンのメンバーであったが、同じフリーメーソンだったと言われるヨゼフ2世が味方に付き、政治的目標を同じくしていたが、1792年に皇帝が死亡してしまう。直後に息子のフランツ2世が皇位につくと、保守的勢力が力を増してきて、ついにはウィーン・ジャコバン党のメンバーは次々に拘束され、ヘーベンシュトライトは1795年に絞首刑に処せられた。このヘーベンシュトライトの首がどういう経緯で、ミイラ状態のまま200年以上も後の現在まで残されたのか、調べてみてもよく分からない。どういう風に保存されたためなのか、この首には40代後半で死亡してまだふさふさだった金髪がそのまま頭皮に残っている。数百年を経て茶色っぽく変色した首が、どことなく悲しそうな表情をしているのがなんとも印象深かった。政治犯として罪を問われ死刑宣告された彼は、さぞかし悔しかったことだろう。そのうえ今日まで博物館でさらし者に…。展示ルームに彼と二人っきりで、お互い顔を突き合わせるのはさすがに忍びなく、というより怖すぎ、ろくに彼のお顔を正視できずに早々にその場を通り過ぎた。
しかし、後になって分かったことだが、この博物館に残っている死人の首はヘーベンシュトライトのだけではなかった。頭蓋骨なら20個くらいはあったし、全身の骸骨も展示されている。博物館の展示ルームはさらに奥へ奥へと続いていき、受付のおばさんからはどんどん離れていく。頭の中がボーっとして、説明書きを読んだりする余裕がどんどんなくなっていく。シチリアのカタコンベでは一人で何百体のミイラの間を平気で歩き回り、ついこの間のハルシュタットでは、骸骨堂で何百個の彩色された頭蓋骨を見学してきた。その私としたことが、この博物館ではどういうわけか、「もう、早く見学を終わりたい」とそればかり考え始めるようになった。だが展示室は20余りもあって、さらに奥へ続いていくだけでなく、いくつもの仕切りで迷路のようになってきて、それが終わったら今度は地下室への狭い階段を降りる、となるともう頭がくらくらしてきた。
(次回へ続く)