ウィーン犯罪博物館訪問記(泣)  第一章 | おかるとぶろぐ

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"Fain would we remain barbarians, if our claim to civilization were to be based on the gruesome glory of war."
Kakuzo Okakura

ウィーン犯罪博物館とは、主にウィーンにおける警察および司法組織の発達や、時代ごとに特徴的な犯罪等、数々の歴史的資料を大量に展示してある博物館である。展示内容は多岐にわたっており、時代も中世から現代まで数百年にも及んでいる。その時代ごとの犯罪捜査や刑罰方法の歴史、証拠保存技術の発達、犯罪報道の歴史、市街の警備組織の移り変わりなどなど、本当に興味深いのだが、なにせ展示されている情報量があまりにも多くて一日で回り切れないほどだった。

・・・というと、いかにも知的好奇心に駆られての訪問だったように聞こえるが、オカルト好きの筆者は、、実際には、この博物館のホームページ にも写真が載ってる、ある死刑囚の首のミイラを見に行きたかったわけなのだ。思えば今から何年も前にドイツ語教室に通っていたころ、あるとき「好きな博物館にいってその感想を発表せよ」との課題が出たのだが、同じクラスにいたチェコ人の仲良し二人組の男の子がよりによってこの博物館に行ってきた。彼らの発表で「死刑囚の首のミイラ」の写真を見て、クラスのみんなは恐れおののいただが、一方私はいつか一度この首を見てみたいと思っていた。今日たまたまウィーン市内で、ある用事が早く終わったので、思い付きでこの博物館に行ってみることに決めたのだった。


博物館周辺の風景


ウィーン犯罪博物館はウィーン2区にあり、ウィーン市中心街から地下鉄で数駅で、徒歩10分もあれば着いてしまうような距離にある。地下鉄駅から地上へでると、つい最近開館になったばかりの、ウィーン少年合奏団のためのコンサートホール「Muth」と(下の写真右側、地下鉄駅を意味する「U」の看板の下あたりのモダンな建物。写真が小さくてすいません)、この近くにあるアウガーテン公園内に、第2次大戦中にナチスドイツによって建設され現在もその場に残る高射砲塔(写真左側の横長の看板の右あたり)が並んで見えるというなんともシュールな光景が広がっている。そこから大通りを下っていくと、個人的に何度か訪れたことのあって見慣れた街並みについたので安心した。そんなところに、犯罪博物館があるなんて知らなかったものだ。

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ウィーン地下鉄2番線「Taborstrasse」出口周辺(クリックで拡大)

博物館のあるグローセ・シュペアル通りの近くに、19世紀後半まで「ツム・シュペアル(Zum Sperl)」というダンスホールがあり、ワルツ王と称されたヨハン・シュトラウス一世が指揮を取ってのオーケストラ演奏をバックに、夜な夜な舞踏会が開かれていたことで有名だ。通りの名前もそれにちなんでつけられたものだという。また、第2次世界大戦頃までウィーン2区には、ウィーンの中でも特に大きいユダヤ人コミュニティが存在していた。精神分析学の祖フロイドが卒業したギムナジウム(注1)もこの地域内にあったのだが、現在は元々あった場所のすぐ近くに再建され、偉大な卒業生の名にちなんで「シグムント・フロイド・ギムナジウム」と改名され現在に至る。

奇しくも博物館を訪問した次の日には、1938年11月9日から10日にかけてドイツやオーストリアなどの各地で発生した、大規模な反ユダヤ暴動「水晶の夜」(注2)から75年になるという。ウィーンではここ数日というもの、この戦慄すべき事件に関連した様々な記念行事が行われ、テレビでは特集番組が放送されていた。この事件を含め、ウィーン2区のユダヤ人居住区で行われた迫害は、とりわけ激しいものだった。この地区にあったユダヤ教の教会であるシナゴーグは、すべて放火にあって破壊されてしまった。ユダヤ系住民は、よその地区の人々と一緒に2区内の集団住宅に強制的に移住させられた後、収容所に送られた。

現在、ウィーン2区を散歩してみると、第2次大戦後に周辺諸国から移住してきたユダヤ系住民をそこかしこで見かける。17世紀そのままの黒くて長い上着に、黒いつば付の帽子やキッパと呼ばれる小さな帽子のいでたちは、街を歩いている人達の中でも特に目立っている。これは超正統派ユダヤ教の信者の衣装だ。博物館に行く途中でも、こういう衣装を着たユダヤ系の子供が、携帯で話しをしながらキック・スクーターで走っているのを見かけた。そんな保守的ユダヤ人だけでなく、リベラルで見かけは少しも他と変わらないユダヤ系のオーストリア人も外国人も、現代のウィーンには住んでいる。博物館の近くの街角には、ユダヤ教の宗教色「カシュルート」食品店や「カシュルート」食のレストランもある。この地区に新たに住み着いたユダヤ人は、悲劇の時代から80年近くを経たあと、どうやら当たり前に幸せで平静な生活を送れているようだ。

注1 日本でいう中高一貫学校のような教育機関
注2 この名称は凄惨なユダヤ人迫害を美化した言葉なので、ドイツやオーストリアでは使われなくなり、現在では「11月のポグロム(「ユダヤ迫害・虐殺」の意)」と呼ばれる


ウィーン犯罪博物館


博物館周辺地域が歴史的にも観光的にもあまりにも興味深かったので、つい前置きが長くなってしまった。
さて、ウィーン犯罪博物館だが、現在博物館の収容されている建物は、やはり1670年まで存在していたユダヤ人ゲットーの真っただ中にあったという歴史がある(そのあとすぐに、この地域のユダヤ人は国外追放されたが、しばらくしてまた居住を許された)。その当時からこの建物は、何度かの修復を経た後現在まで同じ場所に建っているというから、ウィーン2区の中でもとりわけ古く歴史的にも貴重な建物である。下の写真は中庭だが、ベランダのように見えるのは2階の外通路についている手すりだ。このような手すり付の外通路が、中庭にぐるりと廻っている集団住宅は、この当時から19世紀後半までの集団住宅に特徴的なもので、例えばシューベルトの生家のある建物にもこんな外廊下がついている。ウィーン犯罪博物館が開館したのは1988年のことだというが、その際には、かなり傷みが目立っていた建物を2年もかけて修復したそうである。

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ウィーン犯罪博物館の中庭

さて、グロース・シュペアル通りを下っていくと、建物の側壁に看板代わりに書かれた「ウィーン犯罪博物館」の文字が見えて来た。入り口付近の外観を見ると、まるで由緒正しいウィーンの伝統料理のレストランが入っていそうな雰囲気だ。実際そういうレストランはウィーンにはたくさんあるので、到底こんな瀟洒な建物におどろおどろしいミイラが収納されているとは思えない。とはいえ、博物館の内容が内容なだけに、入るのをかなりためらった。博物館の周辺をうろうろ歩き回ったのち、やっと戻って入口へ足を踏み入れてみると、受付のある空間はなんだか薄暗い。受付のおばさんが流しているラジオの陽気な音楽とは裏腹に、なんだか雰囲気がおかしくてやけに落ち着かない。おばさんに入場料6ユーロと説明書きの料金2ユーロを払ったあと、展示場への入口へ向かおうとしたけど、なかなかそちらへ足が向かない。入り口から入って、受付があり、そこを通り抜けて奥にはいると展示ルームAがあるのだが、その前に書籍の表表紙やお土産品を眺めたり、中庭にあるトイレに行ってみたりした。トイレには先客が入っていたが、どうもその女性は他の訪問客らしく、トイレから出た後受付のおばさんと話していた。「私以外にも、たった一人で来る人っているんだ」と安心したが、その人はもう見学が済んでしまったらしく、そのまま帰って行った。そして、ようやく勇気を出して中へ入ってみた。

女性が帰ってしまったので、その時の訪問者は私一人きりになり、完全に一人ぼっちだった。展示ルームに入ると、受付のラジオももうよく聞こえず、自分の靴の音と空調のまわる音がやけに耳につく。とにかくソワソワしてしまって、説明書きを読むのもままならない。というわけで、ここからの文章は、博物館から持ち帰ってきた説明書きその他をもとに、展示物の中で特に印象に残ったものを思い出しつつ書くことになる。展示場では手元の説明書きの何倍もの情報が読めたのに、全く残念でしょうがない。そこで、事件発生当時、一般大衆の注目を集めた興味深い事件に関しては、ネットでいろいろ調査し、その内容も記しておいた。

また博物館の展示は、実際「オカルト」的要素はあまりなく、厳粛なる事実を克明に記録したオリジナル資料から成り立っている。・・・からこそ、返って人間というものの怖さが際立っている気がする。この博物館の展示内容は、現在のオーストリアの連邦警察局の認定も受けていて、犯罪の事件内容などは連邦警察局のホームページでも閲覧できるので参考にさせてもらった。

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(ここからはややグロな描写がちょっとだけあるので、ご注意)


展示ルームAは中世までの警察組織や刑罰方法についての展示がある。何せヨーロッパの中世のことだ。本物の鉄製の拷問道具・手かせ・足かせや、罪人が鳥かごのように狭い鉄製のかごに入れられている様子のモデルが展示されている。この辺はまあ、英国で訪れた拷問博物館でもいくらでも見ることができた。そこには首なしのぶった切れた上半身が、あばら骨も露わに血まみれでぶら下がっていたが、あれは単なる蝋人形だった。展示ルームの奥の方の壁を見ると、バラバラ死体の絵がいきなり目に入ってきた。と言っても17世紀の版画で、1665年にウィーンの路上で発見された少女の遺体の記録の一部らしい。その発見場所が、現在犯罪博物館がある場所から何本か先の通りだったということが分かっているので恐ろしい。発見後、この首がない胴体と切断された手足の遺体は、ウィーン中心街の人通りの多い広場に並べて陳列され、それによって身元確認や犯人捜しのための糸口を探そうとしたようだが、結局は未解決に終わったそうだ。

バラバラ死体の絵のすぐ横には、この事件よりもずっと前、1583年のウィーンで行われた有名な魔女裁判についての展示があった。当時70歳のエリザベート・プライナッハーは魔女で、孫娘のアナに魔法をかけており、そのためにアナがてんかんの発作に苦しむのだ、との疑いを掛けられた。結果はもちろん有罪で、プライナッハーは生きながら火刑に処されることとなった。後世の研究によれば、プライナッハーは以前から娘婿との間に孫のアンナを巡っての確執があり、プライナッハーを告発したのはこの娘婿であった。当の孫娘も娘婿に相当脅されてようで、祖母にとって次々と不利な証言を行った。さらにそのうえ、プライナッハーがプロテスタントに転向していたことも「有罪」の決め手となったようだ。・・・っという、中世末期の当時としてはごく日常的な、だが現代人の感覚では胸糞が悪くなるほど理不尽な出来事である。この事件は、当時も後世も人々も強烈な印象を与えたらしく、魔女裁判や火あぶりになる様子が、様々な時代の画家によって描かれたものが展示されていた。

(次回に続く)