筆者は刑事スリラーが大好きで、テレビでもそういうドラマはしょっちゅう見るし、小説でもかなりたくさん読んだ。ドイツやオーストリアのテレビでは、いくつものシリーズが驚くほど頻繁に放送されていて、しかも俳優陣はベテランから若手まで相当の演技派ぞろい。刑事ものさえ見ておけばドイツ語圏の俳優の有名どころはほぼ完ぺきにチェックできるほどだ。
しかしながら、刑事ドラマで語られるストーリーに関しては、大体が「こんなこと現実に起こりうるわけないだろう」といったものが多い。恐ろしく複雑な背景や人間関係が絡んでいて、なかなかストーリーを追うのも苦労する。昨日見た刑事ドラマなどは、風光明媚な湖畔の整形クリニックの医師らが次々と殺害される。ふたを開けてみたら、数年前に起きた鼻の整形手術中の事故で障害者になってしまった娘のために、父親が敵討ちをしていたという話。そんな事件は十年に一度起こるか起こらないかというような奇怪な事件が、スリラーの世界ではしょっちゅう起こるのだから、さすがに最近食傷気味になってきた。
ところが、昨日テレビでニュースを見ていたら、ドイツのバイエルン地方で、ある男性が何の異常もないのに、司法の手によって社会的危険人物と断定され、あろうことか7年間も精神病院に閉じ込められる破目になってしまったというのだ。
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グストル・モラット(Gustl Mollath)という現在56歳の男性は、8月6日の今日午後、ニュルンベルク高等裁判所の判決直後に、南ドイツはバイロイト地方病院付属の精神病棟から7年ぶりに解放された。事件当時を振り返って、彼の身に降りかかったのは次のようなことである。
2002年11月、モラット氏は、自らの妻から、妻に対しての身体的暴力・彼女やその友人その他の自動車のタイヤを損傷したとのことで告発され、6か月後には裁判に持ち込まれることとなる。2003年12月になって、今度はモラット氏が、自らの妻が、当時の勤務先の銀行で行っていた不正行為について通報する。氏の妻は、銀行の顧客が裏金をスイスに送金する手助けしたというのだ。
ところが、このモラット氏の告発した不正の件は、検察が捜査を拒否してしまう。そのうえ2006年には、モラット氏に対して行われた精神鑑定で「精神錯乱と妄想的症状」が認められたとのことで、モラット氏は、ニュルンベルクの地方裁判所の命令によって、バイロイトの精神病院に送還されてしまった(精神障害のある犯罪者は、責任判断能力がないとされると、刑務所の代わりに精神病院に送られることがある)。鑑定を行った医師は、モラット氏の妻の証言のみで鑑定を行い、モラット氏自身には一度もあっていない。
それからというものモラット氏は、自らの社会復帰のために様々な手を尽くすのだが、2012年になって、例のモラット氏の妻の働いていた銀行の内部書類で、2003年当時モラット氏が告発した不正の件の一部が真実であることが明るみに出た。これを受けて、権力者の不正を暴こうとした一般市民が精神病棟に閉じ込められるという、この恐るべきスキャンダルに対する非難の声が徐々に大きくなってくる。
現在バイエルン州は地方選挙運動の真っ最中なのだが、モラット氏を巡る司法スキャンダルは、州議会でも取り上げられて政治問題に発展し、現職のバイエルン州首相や州法務大臣にとっての大きな負担となっていく。法務大臣やモラット氏の弁護士により、裁判官の予断偏見を理由として裁判のやり直しが申請されるが、またもや取り下げになってしまう。その後、ニュルンベルク高等裁判所によって、モラット氏に対しての捜査に関する鑑定書類が今一度確認されたが、それによれば、モラット氏の妻の怪我についての診断書のサインに不正が発見された。実際は、本来の担当医師の女性ではなく、同じ診療所で働いていた息子による診断だったにも関わらず女性医師がサインをし、虫眼鏡をしないと読めないくらいの小さな文字で「代理」という記載がされていたというのだ。
この診断書の小細工を裁判所は偽造と判断し、裁判のやり直しがやっとのことで執り行われることとなった。その結果、2006年当時の判決は無効となり、モラット氏は、判決のあった8月6日のうちに精神病棟から解放されることとなった次第である。なお、この判決はまだ確定していないので、モラット氏が再び精神病棟へ送り返される可能性はゼロではない。
参照
スタンダード紙 8月6日付記事
南ドイツ新聞 8月6日付記事
Wikipediaの「Gustl Mollath」の項目
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・・・と、まだ現在進行中の事件だし、もっとずっと複雑な背景があるのだが、このくらいで短くとどめておく。この事件については、バイエルン発の有力全国紙 Süddeutsche Zeitung (南ドイツ新聞)その他が、当初から非常に批判的な観点から調査報道していたようで、筆者はその詳細な記事の数々を現在読み返しているところだ。モラット氏の妻が夫を訴えたのは事実無根だった可能性があるのか(モラット氏は完全否定している)、もしかしたら夫に不正の件を嗅ぎ付けられたからなのか、一体銀行で裏金を扱った顧客は誰だったのか、当該の銀行と司法が手を組んでいたのかなど、隣国オーストリアの新聞の簡単な記事を読んだだけではわからない点が多々ある。
モラット氏の事件は、筆者がしばらく前に見た映画を思い起こさせるが、こちらはイタリアの独裁者ムッソリーニを巡る実話を基にしている。第一次大戦頃、ムッソリーニが若き日にイーダ・ダルザーという女性出会って結婚したが、しばらくたつと別の女性と結婚し、ファシスト政権で頭角を現すと、イーダは精神病院送りとされてそのまま死亡、ムッソリーニとの間にできた息子は暗殺される、という話が映画化されたものだ。
また、いつか見た刑事ドラマでは、ある刑事が児童ポルノ事件を捜査しようとしていたが、実は事件の担当検事がその事件に関わる張本人で、ありとあらゆる手を使って捜査を妨害するというストーリーだった。こういうバイエルンでの事件そっくりな、またはさらに悪辣な事件は、刑事ドラマの世界でしか起こらないのかと思っていたとは、平和ボケのせいかうかつだった。
権力機関の不正に基づく背筋も凍るような不正が、現実世界でまたしても発生してしまった。このモラット氏のような目にいつか自分が合わないとは限らないと思うと、全く恐ろしい。日本でも痴漢等の冤罪事件はしょっちゅう起こっているようだが、これも警察当局の都合でどんどん被告が思ってもみなかった不利な方向へ動いてしまうことがあるらしいが・・・。今回のバイエルン州での事件の裏にも、州の政治・司法的な腐敗が隠されているようで、既に「バイエルン州始まって以来の大司法スキャンダル」と見なされているようだ。昨今、アメリカ政府の不正を暴こうとしてロシアに亡命を余儀なくされた人物が話題になっているのだが、今回の事件はドイツ国内のみの話題だとしても、それに匹敵する事件かもしれない。