サラエボ事件の顛末
ところで、来年の2014年の夏は、第1次世界大戦勃発から100周年ということで、オーストリアではすでに1年前の今からテレビや新聞などで話題になっているようだ。正確には1914年(大正3年)6月28日に、オーストリア・ハンガリー・ハプスブルク二重帝国の皇太子であったフランツ・フェルディナント大公が、現在独立してボスニア・ヘルツェゴビナの首都となっているサラエボで、スラブ民族主義的秘密組織のメンバーであったガブリロ・プリンチプ他一団に暗殺された。この「サラエボ事件」をきっかけとして、ちょうど1か月後にオーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦の火ぶたが落された。と、この辺の件は、世界史を習ったことがなくてもご存知の方が多いだろう。このブログでは、その後の戦争の経過には触れない。
(当時のスラブ系諸国はバルカン半島に及ぶまでオーストリア・ハンガリー帝国に属してたので、サラエボはハプスブルク帝国の一都市だったことになる。ちなみに、7月26日付オーストリアのスタンダード紙が、皇太子を銃撃したガブリロ・プリンチプの孫にあたるマルコ・プリンチプ氏(61)とのインタビュー の模様を掲載しているが、氏の写真を見ると前法皇のベネディクトゥス16世に似ているので驚いた)
フランツ・フェルディナント大公とその妻ソフィーは、その日、視察旅行のためにサラエボを訪問中であった。大公夫妻は、サラエボ郊外にあったイリジャという町までは鉄道で移動し、そこからサラエボ市内までは町を流れるミリャツカ川沿いに自動車で移動することになっていた。大公夫妻の他に大公の侍従・セルビア市長他セルビア側の政治・軍事関係者・貴族や役人などが、計6台の車輛に分乗して従っていた。大公夫妻が乗っていた前から2台目の車輛には、当時のボスニア・セルビア地域の総督と、その車輛の所有者であったフランツ・ハラッハ伯爵が同乗していた。この車輛は、当時ウィーンに存在していたグレフ・ウント・シュティフト社(Gräf&Stift) というメーカー製の、6人乗りのダブル・フェートンというタイプの車種であった。
午前10時ごろ、大公夫妻の乗った車輛の近くに黒っぽい物体が飛んできたのに気付いた運転手は、一気にスピードを上げてそれをよけた。これは、セルビア人暗殺団の一人が投げた小爆弾で、3台目の車輛のすぐ前で爆発した。この車に乗っていた同行者の1人と周りの見物客達のいくらかが怪我を負ったが軽いもので、爆弾を投げた犯人は見物客達の手によって警察に引き渡されたため、大公ら一行は再び市庁舎への移動が続けられることとなった。
ようやく市庁舎に到着し、市長から大公閣下夫婦への歓迎の辞などが述べられた後、次に一行は当初の予定を変更して、先ほど負傷した同行者を見舞うために、町はずれにある病院へ向かうこととなった。ミリャツカ川にかかるラテン橋のあたりで、通行するはずのルートを外れたことに気付いた運転手が、元の道に戻ろうとしてUターンし、車輛はしばらく一旦停止した。ちょうどそのとき、すぐ近くのカフェには、先ほどの爆弾騒ぎの後、セルビア人暗殺団の1人であったガブリロ・プリンチプが逃げ込んでいた。偶然にも、自分のすぐ目の前に、大公夫妻の乗った車が停車していることに気付いたプリンチプは、即座にそちらへ向かい、わずか数メーターの距離から、ピストルで大公夫妻目がけて2発の銃弾を発射した。1発目は大公夫人ソフィーに命中し、夫人は出血多量で間もなく死亡、2発目は大公の頸動脈に命中し、ハプスブルク帝国の皇位継承者は、直後に意識を失って、それからいくばくもなく絶命した。
プリンチプは暗殺遂行直後、暗殺団のメンバーみんなが持たされていた青酸カリを飲んで自殺を図ったが、すぐに吐き出してしまってそれは成らず、その場で警察に身柄を確保された。後に、逮捕された暗殺団総勢25人を相手取り裁判が行われたが、大公夫妻を銃殺したプリンチプはまだ19歳と若かったために死刑だけは免れた。しかし、わずか4年後の1918年、獄中で結核により死亡する。
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ここまでが、歴史に名高い「サラエボ事件」の顛末である。この第一次のほうの世界大戦は、その後の第二次に比べると、日本は一応参戦していたとはいえ関わりがやや薄い。しかし、稲川怪談で登場する六甲の「メリーさんの館」とやらの話は、実は第一次世界大戦が関係しているのだ。第一次世界大戦時、日本は日英同盟に従って、ドイツ帝国に宣戦布告する形でこの大戦に参戦した。当時ドイツが中国から租借していた青島(山東省にある島)を日本軍が占領した。その際に、青島在住だったドイツ人は日本各地に存在していた捕虜収容所に連行されたのだが、そのような捕虜の一人がドイツ菓子で有名な「ユーハイム」の創業者であった。ドイツ人収容所のうちの一つは、神戸の六甲にもあったわけなのだが、例の「メリーさんの館」はその建物を巡る怪談らしいのである。ちなみに、現在その場所では六甲山ホテルが営業しているそうである。
フランツ・フェルディナント大公の事故車を巡る都市伝説
話が大幅に外れたので戻す。さて、この暗殺事件を巡って、アメリカを中心に日本でも珍妙な都市伝説が流布されているようだ。筆者自身も、イギリスで出版された、ある怪奇譚ばかり集めた本の中で、その話を読んだことがある。ある車関係のウェブサイト で、その都市伝説を詳しく書いたものを見つけたのだが、それによると、サラエボ事件の際大公夫妻が遭難した、グレフ・ウント・シュティフト製の車輛は呪いがかかってしまい、事件後の所有者たちはみな不幸な謎の死を遂げているというのだ。
・・・・・サラエボ事件が勃発した後年の所有者たちは総計15組にも及ぶが、そのうち6組が事故に遭って13人もの人間が生命が奪われた。まず、オーストリア軍の将軍ポティオレックは、事故車の購入後、バリエヴォの戦いに敗れて降格され、精神に異常をきたして精神病院で狂死した。
次の所有者である某大尉は、車両の購入後わずか9日後に事故を起こした。二人の通行人を轢き殺したあと、大尉はハンドルを切りそこなって、道路わきの樹木に激突し死亡した。
ユーゴスラビアの知事も、フランツ・フェルディナントの事故車を買い受けたが、所有期間中4回も事故に遭い腕を切断する羽目になった。その友人であった医者のシクリスは、事故車の呪いの話など信じずに知事から車を買い取り、その半年後には車が横転する事故に遭って世を去った。
次の所有者のダイヤモンド商人は自殺を遂げ、その次のスイス人レーサーは走行中壁に激突し、窓から放り出されて即死した。セルビアの農夫は、問題の事故車を自分の車で牽引させようとしたところ、事故車に押しつぶされて死亡した。
最後の所有者であった整備場経営者ティベル・ヒルシュフェルトは、1926年、例の呪われた車で結婚式会場へ友人5人と向かっている最中、追い越しの最中に突如として制御が効かなくなり、4人の同乗者もろとも事故死した。この事故を最後に、事故車はウィーンの歴史博物館に収容されることとなった・・・・・・
っと、まあ、件の伝説を長々と全部紹介してしまったが、どうやらこのような伝説は、ウィキペディアの「サラエボの暗殺事件」ドイツ語サイトによれば完全にでたらめであるようで、一切そのことには触れられていない。上記の伝説の最初に登場する、ポティオレック将軍とやらについては実在の人物で、当時ハプスブルク帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ地域の総督であった。サラエボでの暗殺事件の際は、大公夫妻と同じ車両に乗り合わせていたが、同じく同乗者で車輛の所有者のハラッハ伯爵とともに無傷で難を逃れている。このポティオレック氏とその他の人々が、大公の事故車を所有したという事実はないはずだ。なぜなら問題の事故車は、ウィーンの軍事施設内にあるウィーン軍事史博物館に、1914年からほぼ一貫して展示されているからだ。暗殺事件後、この車輛はしばらくサラエボにとどまっていたが、所有者のハラッハ氏がフランツ・ヨゼフ皇帝に寄贈して以来、当の軍事史博物館内に展示されていた。第2次世界大戦中の1944年、博物館が収容されている軍事施設が爆撃に遭い、問題の車輛も一部損傷したが修繕された。1957年からは、サラエボ事件展示物用の特別ブースに展示され、現在に至っている。
博物館の「サラエボ・ブース」には事故車の他にも、フランツ・フェルディナント大公が暗殺された時に来ていた軍服や、暗殺者のプリンチプの使用したFNブローニングM1910型拳銃も展示されている。軍服の上着の表側から中まで血に染まっているのが今に至っても確認でき、血痕はズボンにまで達している。毎年フランツ・フェルディナント大公の命日(6月28日)には、大公が暗殺時に着用していた、血痕も生々しい下着のシャツが、軍事史博物館で記念に展示されるそうである。
例の都市伝説だが、いくらでたらめと言っても、こんなうわさ話が出るからには何らかのきっかけや出所があるはずで、もしかしたら別の車輛で上に紹介したような事件が実際に起こったのかもしれない可能性もある。いったい何でこんな都市伝説が登場したのか、それをちょっと調査中である。
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Wikipedia:
Attentat von Sarajevo
https://de.wikipedia.org/wiki/Attentat_von_Sarajevo
Erster Weltkrieg
https://de.wikipedia.org/wiki/Erster_Weltkrieg
サラエボ事件
http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryupdateinput.do?id=11583940017
ガブリロ・プリンチプ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B4%E3%83%AA%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%97
第一次世界大戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
今回は、特に地名や人名のカタカナ表記の仕方にこだわっていませんのであしからず。