マイヤリング = うたかたの恋 ・・・ 死後も続いた男爵令嬢マリー・ベツェラの災難 | おかるとぶろぐ

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Kakuzo Okakura

「マイヤリンクの情死」の背景
マイヤリンク Mayerling (読み方は「マイヤーリンク」のほうが一般的だと思うが)といっても、通常の日本の人々には何のことだか分からないと思うが、「うたかたの恋」と言い換えればまた話は違うだろう。
マイヤリンクは、オーストリアはウィーンの隣にあるニーダーエストライヒ州に存在する地名で、いわゆるウィーンの森の中にある、人口200人にも満たないとても小さな村である。しかしこの村には、オーストリア皇太子ルドルフ(1858-1889)が所有していた狩猟用の小さな城館(Schloss Meyerling)があり、これが村で一番の「観光名所」となっている。

1889年1月30日、現在はカルメル派修道院となっているこの城館内の寝室で、皇太子ルドルフはその愛人マリー・ヴェツェラ男爵令嬢(1871-1889。オーストリアではこの名前は「ヴェチェラ」と発音されることもある)と共に遺体となって発見された。この悲惨な出来事については、現在に至るまで多くの謎が解決されないままだが、ともかくこの「心中事件」をテーマにして、フランスの作家が「うたかたの恋」(原題は「Mayerling」)がという名前で小説に仕上げる。この小説は過去に何度か映画化されているし、この小説を題材にしたミュージカルを宝塚歌劇場が上演しているので、ご存知の方もいるだろう。さらに、英国の著名な振付家は、1978年にこの小説をフランツ・リストの音楽にのせたバレエ作品に仕立て、ロンドン・ロイヤル・バレエのレパートリーになっている。

ことに、この戦慄すべき歴史的事実から、よりによってバレエが作られてしまったということには、個人的にショックを受けてしまった。おそらくこれは、実際に起こった事件を題材にした唯一のバレエ作品だろう。クラシック・バレエ鑑賞は個人的に大好きなのだが、その題材は伝説・おとぎ話・小説など架空のものがほとんどだ。小説「うたかたの恋」の内容が相当美化されたものだったのであろう、この話のストーリーは、妻子持ちの皇太子とわずか18歳の男爵令嬢の二人が、不倫ならびに身分違いな恋に悩んだ挙句に悲劇の「情死」を遂げた、ということになっているようである。実際には、この事件にはそんなロマンチックな側面は微塵もないといっても過言ではない。一人マリー・ベツェラだけは、もしかしたらルドルフに、うら若い女性らしい一途な恋心を抱いていたのかもしれないが。

だがルドルフには、妻子以外にも長年付き合っていたミッツィ・カスパーという娼婦がいただけでなく、マリーの母ヘレーネが若かった頃にも愛人関係にあったという。ルドルフとマリーの出会いは1888年のことで、初めて二人だけで会ったのがその年の11月だという。侍女や御者などの協力のもとに、二人は人目を忍んで逢瀬を重ねたが、1889年1月の情死までわずか2ヶ月にも満たない期間のことであった。それまでにルドルフは、皇太子妃ステファニーとの不仲はもちろん、父親である皇帝フランツ・ヨゼフ1世との確執、世紀末における国内外の政治社会的不安定、梅毒や肺病の悪化などの問題を募らせた結果、激しい情緒不安定に陥り、精神的に限界に近いところまで追い込まれてしまった。絶望したルドルフは、元々ミッツィと情死を遂げようと考えていたが、ミッツィはそれを一笑に付して断った。そこでやむなくマリーをあの世の道連れに・・・となってしまったわけだという。マリーと心中を遂げる前夜も、ルドルフはミッツィの元で過ごし、そこから直接マイヤリングへ向かった、ということが皇太子の警備担当の当時の記録に残っている。ルドルフ皇太子は、ミッツィはともかく、マリーに関して果たして本当に真剣に愛していたか、相当疑わしい。ルドルフはマリーを最初から心中の相手にすることが目的で付き合い始めたとさえ言われているが、それを確証出来そうな資料は今のところ見つかっていないという。

「マリー・ベツェラの死後の災難」
ルドルフ皇太子とずっと年若い愛人とが、マイヤーリングの館の寝室で血まみれの遺体で発見された瞬間から、ハプスブルグ家とその関係者や政府の役人は、この想像を絶するスキャンダルのもみ消しに腐心した。ルドルフとマリーが最後の夜を過ごした次の日の朝、館の中から2発の銃声が聞こえ、皇太子付の召使や御者が駆けつけた。追ってウィーンから派遣されてきた医師によれば、双方共ピストルによる頭部損傷で死亡したとされたようだが、マリーについては自殺だの、ルドルフ皇太子がマリーを撃ったのだが、それは心神耗弱によるものだっただの、様々な憶測が飛び交った。

何はともあれ、ハプスブルグ家は皇位第一継承者であったルドルフの葬儀が、正式にカトリック教会で行われるように便宜を計らった。一方マリーのほうは、医師の検死が済んだ1月31日の未明のうちに、マイヤリングの教区教会であるハイリゲンクロイツ修道院の墓地へ馬車で運搬され、急ごしらえの粗末な木の棺に入れられ、秘密裏に埋葬された。馬車でマリーを運ぶ際、生きているかのように見せるため、背中に棒を一本入れて、上半身を起こして座らせていたという。マリーの遺族はその年の内に、同じハイリゲンクロイツの墓地にマリーの身分にふさわしい墓標を建て、その遺体を豪華な銅製の棺へ移した上で再度埋葬された。1897年には同墓所内に、マリー・ベツェラを記念する礼拝堂が建設され、そのステンドグラスにはマリーの姿が描かれている。

それから約50年余り経ち、第2次世界大戦が終わると、ウィーンを含むオーストリア東部はロシア軍の管理下に置かれることとなった。そして1945年4月、ハイリゲンクロイツのマリーの墓地は、ロシア進駐軍の兵士の墓泥棒の被害にあい、棺のフタは開けられてしまっていた。貴族の女性の墓地であるため、豪華な副葬品を狙っての犯行であったようだ。破壊された墓所が改修され、マリーの遺骸が新しい錫製の棺に移しかえられ、元の棺の鉄製土台の上に安置されたのは、ロシア軍の撤退後の1959年のことであった。このときに立ち会った埋葬関係者達は、死亡時の検死報告に反し、マリーの頭蓋骨には銃弾の跡はなかったと証言している。

やっとのことでマリーに安らかな眠りが訪れたかと思われたが、それは1992年にまたしても破られた。リンツ出身の家具商人であったヘルムート・フラッツェルシュタイナーが、「マリー・ベツェラの遺体をある人々から入手した。」と自ら宣言した。それを受けて裁判所の許可の下に、ハイリゲンクロイツの墓地を掘り起こすと、棺の中身は空であった。その模様は、国内はもちろん世界的にも大々的に報道され、公衆に大きな話題を呼んだ。捜査の結果、墓を掘り起こしたのは当のフラッツェルシュタイナーで、1991年7月に密かにマリーの墓を暴き、遺体の身元を隠して専門家に調査を依頼していたのだ。フラッツェルシュタイナーが釈明したことには、マリーの死因についてはかねてから多くの法医学者が興味を示していたが、遺体を墓から掘り起こしての調査許可を正式に依頼したとしても、ハイリゲンクロイツ修道院やマリーの子孫であるバルタッツィ・ベツェラ家から毎回のように拒否されていた。そこで彼は、勝手に墓を掘り起こして遺体を調査させることに決めたのだという。その非公式の調査の結果では、マリーは頭部へのピストルによる損傷で死亡し、そしてそれはルドルフ皇太子の犯行によるものだということに疑問の余地はない、とのことである。前述したマリー自殺説については、マリーが右利きであったにもかかわらず、銃弾が逆方向から貫通したことが証明されたために覆されたとされているが、それはこの時の鑑定によるものと推定される。バルタッツィ・ベツェラ家自身も、遺体の法医学鑑定の許可願いを一旦提出していたが、その決定が下る前にキャンセルしてしまった。

1993年10月、マリーの遺体は、またまた改めて別の新しい棺に納められて墓所に収容されたが、その際深い墓穴にはきっちり土が詰め込まれ、何百キロもある石の蓋が置かれた(墓荒らしにあうまでは、棺は深い墓穴の底に置かれ、その上に土はかぶせずに蓋がかぶせられていたようだ)。バルタッツィ・ベツェラ家が遺体のDNA鑑定を拒否したために、果たして例の遺体が本当にマリーのものなのかは不明である。しかし、その年齢はおよそ18歳で、埋葬されて大体115年は経過しており、服装の時代はマリーの存命中のものと一致し、仕立てをしたのはベツェラ家も利用していた店であった、ということは確認されているという。

ちなみに墓荒らしの犯人は、本来ならそのような行為を無許可に行うことは禁止されているにもかかわらず、刑事起訴を免れることが出来たが、修道院に対して約1,999ユーロ(現在約25万円。当時はオーストリア・シリング)が損害賠償として請求されることとなった。

追記
ブログ主は、このマリーにちょっとだけ縁があるかもしれない。まず誕生日がちょうど100年後の数日前だし、うちのパートナーの祖先がウィーンの森のマイヤリング近くの出身だ。そのため、ハイリゲンクロイツ修道院についているレストランも折に触れてよく利用するが、つい数日前もパートナーと一緒に夕食を食べにいった。そのあと、たまたまYoutubeで大好きなバレエを見ていたら「Mayerling」の録画があった。この地名は、私にとって(そしてオーストリア人にとっても一部そうだろうが)どうしても上に書いたとおりのおぞましい事件を思い出させてしまう。「ああ、そんなバレエがあったなあ」と思いつつ、いろいろマリーについて調べている途中で、そのお墓がさっき行ったばかりのハイリゲンクロイツ修道院墓地にあることがわかった。ああ、知っていたら見にいったのに、次に行くときまでお預けだ。

マイヤリングの方もうちから遠くないし、有名な事件の舞台になった場所だから、以前週末にそのマイヤリングの城館をハイキングがてら見に行ったことがあった。森の中にひときわ低くなってる窪地のようなところにあるマイヤリングにつくと、館の駐車場には、観光バスが1度に2台止まっており、狭い館内にそのバスでやってきた日本人観光客のグループがひしめき合っていた。宝塚歌劇のせいか、日本人にも人気の観光スポットなのだろうか。ガイドツアーは有ったか無かったか覚えていないけど、日本人グループのガイドを勝手に聞かせてもらった。例のルドルフとマリーが発見されたベッドも、普通に見学できたはずだ。考えようによっちゃ、ここもまた心霊スポットになるのかなあと思うのだが、例によって霊感らしきものが無い私は、何の妖しい空気も感じないのであった。

それにしても、なんと気の毒な話だろう。もしお墓に行ったら、マリーの安らかな眠りが金輪際二度と揺り起こされないことを、心から祈りたくなった。


参考
Mary Vetsera - Oft begraben und doch nicht tot! (Youtube。1992年のマリーの墓地の確認作業時の写真あり)
http://www.youtube.com/watch?v=gf-2mrhRVAk

Wiki Mary Vetsera (Wikiの「マリー・ベツェラ」のドイツ語の項目。下のルドルフの項目とともに日本語の項目もあるが、ドイツ語のものは内容がかなり違う)
http://de.wikipedia.org/wiki/Mary_Vetsera

Wiki Rudolf von Österreich-Ungarn (Wikiのルドルフ皇太子のドイツ語の項目)
http://de.wikipedia.org/wiki/Rudolf_von_%C3%96sterreich-Ungarn

Georg Markus (2011), Schlag nach bei Markus, Wien: Amalthea Signum Verlag
(この本の著者ゲオルク・マークスは、1992年のマリーの墓所の墓荒らしの情報を得て、警察に通報した人物。)