徐福東渡

  

この史料は徐福の東渡を伝えています。学者たちは誰も、「夷洲」を沖永良部島と気付いていません。夷洲を「台湾」と考えています。「会稽の海外の東てい人」から考えてその地域は会稽の東と考えるのが自然です。それは奄美群島になります。「せん洲」と「夷洲」は奄美群島の中の島と考えられます。

上の史料、文脈から「せん洲」に徐福たちが留まったと分かります。

 

「徐福像」とわたしは伝えています。伊仙町の文化財です。現在は公に見る事は出来ません。この像の発見をきっかけに徳之島が徐福たちが向かい、最初に上陸した島である事を明らかにしています。史料の表記から「せん洲」と「夷洲」は隣り合う島と分かります。「徳之島」と「沖永良部島」です。

「東てい人」の「てい」の意は「おおなまず」です。どんな魚であるか、学者たちは分からないようですが、わたしは「大瀬ざめ」と直観しました。

  

髭のようなものが、ナマズを連想させます。

 

伊仙町面縄の漁港で上がった事があります。

ナマズの体長は約60㎝、大瀬ざめは約100㎝とネットにあります。大瀬ざめ=おおなまずと考えられます。

せん洲=徳之島です。

夷洲=沖永良部島、せん洲=徳之島は共に神聖な神の島です。神の代が来るまで隠されて来ました。

   東冶と東治

「会稽東治」と「会稽東冶」について邪馬台国研究者が検証しています。「東治」が正しいとの結論が出ています。「夷洲」を台湾と考えた学者たちは会稽東冶で考えているはずです。「東冶」は福建省にある地名です。その東で「台湾」になったと思われます。

    本題

 

「秦王国」は日本の歴史書には出て来ません。倭国の都邪馬台国も日本の歴史資料には出て来ません。ここでいう「秦王国」は福岡の東部ー大分の北西地域です。昔の「豊」国です。秦氏は秦の始皇帝の子孫、またイスラエルはダビデの子孫と伝えられています。その秦氏が『夷洲』から来ていると伝えています。中国→夷洲→九州の豊国と伝えています。秦氏はダビデ一族、ダビデ王家の側近です。女王ヒミコはダビデ王家です。王はダビデの血筋から出ます。中国から蓬莱ヶ島=せん洲(徳之島)とその隣の島、夷洲に来たのは徐福一団です。徐福はイスラエルのヨセフの家と先に伝えています。始皇帝はダビデ王の子孫です。秦氏はダビデ一族です。始皇帝の子孫と共に徐福一団に「秦氏」はいます。応神朝に朝鮮半島から渡来した秦氏とは別の集団です。徐福東渡の目的はダビデ王国の建設です。

秦王国の「王」とは誰?秦王国=豊国から分かります。女王ヒミコの後継者、壱与=台与=ㇳヨです。倭国は都を邪馬台国=徳之島からㇳヨ女王の時、九州は豊国に遷都しています。それを伝えるのが「秦王国」です。秦王国=豊国=京都(みやこ)郡です。「馬が岳城」はㇳヨ女王の皇居であったと思われます。その跡継ぎは万世一系の皇統、清和源氏嫡流です。したがって清和源氏の始祖源経基の築城とされていると思います。

 

豊女王の時の倭国の都の辺りを伝えています。「阿蘇山あり」と記されています。日本は神の国です。神は隠れる神です。隠す神です。「神示」の助けが無ければ真実の歴史の解明は不可能と思います。「神示」は真の天子に来ます。

  真の天子

 

わたし24歳の時です。真のユダヤ人は日本人です。「徐福」はヨセフの家の子孫です。藤原家はアロンの子孫です。真の天皇家は万世一系のダビデ王家です。救世主イエスは日本人です。変な事にイエスの肖像画は白人になっています。とんでもない間違いです。日本人の顔を素にしてイエスの肖像画を描く事をおすすめします。

 

わたしのこの写真を素にしてイエスの肖像画を描く事を許可します。このままではいけません。わたしはイエスではなくダビデですから。ダビデは母なる神イエスの御子ですから似てはいるはずです。白人のイエスの肖像画に「否」を宣します。

万世一系の天皇=鳳凰

893侠客天子ダビデ」