「一流は目指さない」オペラ座で歌う日本人ソプラノ声楽家を訪ねて
配信
まだ海外で活躍する日本人の声楽家が少なかった時代、単身現地に乗り込み、25年以上にわたってキャリアを築いてきた女性がいます。芸術の世界は努力がなかなか報われないと言われます。そんな厳しい業界で、彼女はどうやって自分の居場所を確立したのでしょう。 【画像】オペラ座バスティーユの舞台裏 パリ11区バスティーユ広場前に、一際目立つ近代的な建物がある。フランソワ・ミッテラン大統領(当時)の、「現代的で民衆的な」オペラ座を建てたいという望みで建設された、オペラ座バスティーユだ。建設計画が持ち上がったのは1982年で、「オペラ座」と聞いてたいていの人が思い浮かべるであろう1874年に完成したガルニエ宮とは、対極の外観をなしている。 そんなオペラ座バスティーユで、ソプラノ歌手として活躍する浦田典子(51)が迎えてくれた。楽屋がずらりと並ぶ迷路のような廊下を通り抜けて、光が差し込む広々とした練習室へと案内してくれる。 浦田は開口一番、自分は「オペラ歌手ではなく、職業歌手だ」と説明する。つまり、オペラだけでなく「コンサートもやるしオラトリオ(聖譚曲)も歌う」のだ。 そんな彼女は、初めから声楽家を目指していたわけではなかった。子供のときからカラオケが好きで、「松田聖子や中森明菜をよく歌っていた」ものの、音楽の世界に入るきっかけとなったのは、小さい頃から習っていたピアノだった。 ところが、高校生のときにピアノの先生から「レベルが達していないから、ピアノで音大に入るのは難しい」ときっぱり告げられる。そこで教育学科を勧められ、その受験のために歌の先生について習ったのが、声楽との出会いとなった。結局、教育学科と声楽科を受験するも、教育学科は不合格。成り行きで、合格した声楽科に進学することに。 大学院ではオペラ科に進んだが、同時にフランス語歌曲が好きだったという理由から、「フランス語を極めようかな」という考えが頭によぎる。浦田は当時をこう振り返る。 「フランス歌曲をマスターして、フランス語が喋れるようになって日本に帰国したら、大学で教えることができるかと思ったんです。そのときも、まだ歌手になるとはまったく思っていませんでした」 親から、「何があるかわからないから取っておけ」と言われていた教員免許はすでに取得していた。小・中・高校で教えることはできるが、大学で教鞭を取るにはフランスの大学での経験が役に立つと考えたのだ。その結果、奨学金をもらいパリ国立高等音楽院に進学。25歳のときだった。 当時はフランス語がまったく話せず、実践で身につけたというが、それでも辛いと感じたことはなかったという(現在は、フランス語学テストTCFでB1レベル以上を持っていないと、奨学金の試験は受けられない)。浦田は笑いながらこう話す。 「最初から言葉も話せないのに、現地の人と友達になれることなんてないじゃないですか。それを目指して友達ごっこをしていたら辛いと思うんです。でも、できないなりにやっていればなんとかなります。その頃なんて、スマホなんてないし、ノートパソコンなんて30万円もする時代だったので、家族や友達との連絡手段はFAXですよ」
「一流」は目指さない
現状を客観的に捉え、そのうえでベストを尽くす。現実と折り合いをつける、その潔さは、仕事における考え方にも表れている。 浦田は、パリの大学で4年生のときにオペラで役をもらい、そこからプロの演奏家としてのキャリアをスタートした。当時からフリーランスで活動していたので、登録している音楽エージェントか、もしくは自力でオーディションを取ってくる必要があった。 ひたすらオーディションを受けて、「受かるものは受かる、落ちるものは落ちる」という日々。そんななかで、浦田は「一流を目指さなければいけない、という考え方を捨てた」と話す。 「マリア・カラスが一流だとして、自分がその立ち位置で仕事をもらえることは絶対にないと思ったんです。でも、彼女のように歌うことを『目指す』ために、努力をすることは誰にでもできます」 クラシック音楽界はヒエラルキー社会だ。一晩の公演で、100万円単位で稼ぐような特A級のアーティストは、ほんの一握りしかいない。さらに、外見に対する差別や出来レースなど、自分の力が及ばないところでオーディションに落とされることもある。 「売れる人がどんな人なのか、ということを肌で感じるようになったんです。それが、自分ではないだろうなとわかった瞬間があって。だから、特A級のところばかりのオーディションを受けて落ち続けるのではなく、自分に合った階層のなかで主役をやれたらいい、という考え方にシフトしました」 浦田がパリにやってきた25年前は、フランスで歌っているアジア人は片手で数えるほどもいなかったという。実際に「歌はいいけど、見た目が合わないから僕のところでは取らない」とディレクターに言われたこともある。それがあまりにも悔しくて、オーディションのときも自分の演奏を録音するようになった。 「自分の演奏がせめて、どうだったのかを振り返ろうと思ったんです。自分の出来がよかったら、それでいいじゃないかと。自分が目指している超一流の人の歌い方と聴き比べて、何が悪かったのかを分析する。それは、いまでもやっています」 この厳しい世界で、浦田が生き残ることができた秘訣はなんだったのだろうか? 「運が自分に降りてきたときに、それを自分が使い切れるタイミングにあった。それに尽きると思います。羽生結弦選手が『報われない努力もある』と言っていましたが、まさにその通りです。オーディションのたびに、お金を払ってお稽古に行って、良い洋服を着て、化粧して、前の晩は早寝をしてお酒も飲まずに、誰とも喋らずにマスクを着けて、っていうことをやっても、受からないことだってあるんです」
65歳まで現役
運をつかんで一度大きな役をもらえたとしても、次があるとは限らない。この仕事をしていて一番辛いのは、仕事がないときだ。浦田いわく、自分は「Cクラス」のレベルで、フリーランスで定期的に仕事があるのは「特AとAクラスだけ」。だから、そういうときはひたすら仕事を探して、待つしかない。 だが、フランスには芸術家に手厚い「アルテミタン」という制度が用意されている。これは、舞台芸術に携わるフリーランスのアーティストやスタッフが短期の雇用契約を結び、合計で年間507時間以上の就業を証明できた場合、翌年に10ヵ月分の失業手当を申請できるというものだ。 浦田の場合、ソロの仕事だけでこの507時間を達成できなかったときのために、オペラ座バスティーユの合唱団リストにも登録していた。とくにコロナ禍では、アルテミタンのおかげで通常の生活を送ることができたという。 このようにソロを中心に歌ってきた浦田だが、最近大きな決断を下したばかりだ。 「私はいま51歳ですが、ヨーロッパではこの年になると、声楽家としてはおばあちゃん扱い。オーディションやコンクールには年齢制限があって、50歳を過ぎた途端にその門戸がぐっと狭くなります。そこで、また人生に折り合いをつけるときです。だから、オペラのソロ活動は2023年4月で終了しました」 今後、浦田は前述の合唱団も含め、コンサートなどの活動をしていくつもりだ。この決断には、もちろん葛藤もあった。いままでずっとソロで活躍してきた人が合唱団に入るのを受け入れるのは、そう簡単ではないだろう。しかし「65歳まで現役でいたい」と言う浦田にとって、これは然るべき選択だった。 「私のような道を進む人は稀です。あるソリストは、『合唱なんて嫌だ』と言って、マッサージ師の資格を取って自分のお店を開きました。やっぱり、ソロから集団に入るのは嫌なんでしょうね。でも、私にとってバスティーユで合唱ができるのは光栄です。素晴らしいソリストの横で歌えるわけですから」 この「折り合い」の付け方も、潔くて浦田らしい。 「人生において、誰しもがそうやってページをめくる瞬間がありますよね。そのときに、常に後悔がないようにしたい。私は『職業歌手』として、自分ができることにフォーカスしただけなんです」