卒業する信吾 7 
                  清水景允


 12月に入った。
小柄な君枝の体重が急に増加しはじめた。
43Kgの体重が60Kgになった。
信吾と君枝は、妊娠しているのだから当然と考えて、別に気にしていなかった。
両足が浮腫み長靴がはけなくなって来た。
それでも、気にしなかった。
そんな状態が続いた。
お袋が君枝の異常に気がつき、即産婦人科に連れて行った。
 信吾は学校で仕事をしている。そこにお袋から電話が入った。
「直ぐ、病院に来るように・・・。」
との連絡であった。

 当時、信吾は自動車運転免許を取得していたので、車を走らせ、病院へ駆け込んだ。
ドクターは信吾の顔を見るなり、「どうして気がつかなかったのですか・・・。」
と言い、さらに続けて「直ぐに帝王切開しますから、書類に署名捺印をして下さい。」と言うのである。
言われるまま、署名捺印し看護士に渡した。
看護士から「重度の妊娠中毒症です。」と告げられた。
1971年12月15日であった。
しばらくして、手術は終わり、ドクターに呼ばれた。
ドクターは「危険な状態でした。しかし、今は母子ともに安定しています。」
と告げてくれた。

 取り出した胎児は3600gの女の子である。
普段の体重が43Kgしか無い君枝の身体の中に3600gの胎児が入っているのだから、君枝の腎臓に負荷が掛ったのも当然であった。
信吾は納得し、その日は、君枝の母親に付き添ってもらい帰宅した。
帰途の途中、午後の太陽の光を、まともに受けそそり立つ大雪山の白い勇姿が、今まで見なれている大雪山とは違って見えた。

 名前は史子(ふみこ)。
君枝が命名した。
退院し、君枝の実家で療養し、市営住宅に帰ってきた。
家族が増えた。
市営住宅の暖炉は石炭ストーブである。
夜中にも石炭を貯炭しなければならない。
石炭ストーブの煙突に湯沸かし器が付いている。
その湯沸かし器の蓋を外し、湿度を上げなければ石炭ストーブの熱で部屋が乾燥してしまう。
夜中に君枝が史子に授乳させる為に、何度も起きる。
その都度、石炭ストーブをデレッキ(石炭ストーブの中に石炭灰等を取り除く鉄の棒)で火力を調節する。
また、夕方、史子を背にして、歩いて10分位の銭湯に通うのである。

 公営住宅は南の窓から、十勝岳連峰が良く見えた。
 
 雪が溶け春になった。
学校の教員住宅審査委員会から、旭川市内の永山町に建っている教員住宅への入居許可の通知が信吾の元に届いた。
当時、住宅事情が悪く、学校関係の職員は教員住宅への転居希望者多かった。
親の住む東旭川から離れることに、親は反対するに決まっていた。しかし、信吾は、親が元気で生活出来る間は自分達で生活してもらうはなければ、と割り切り永山町に転居した。

 教員住宅は、6畳、4畳半、3畳、2畳の台所、それに浴室が付いていた。
君枝は、これから内風呂で生活することが出来るのである。
寒い日、史子を背負い外風呂に通うことをしなくても済むのである。信吾は学校に少しばかり遠くなるが、自動車通勤の許可をとり問題はなかった。
こうして永山町での生活がはじまるのであった。