教諭時代 6
清水景允
信吾は卒業生を送り出してから、少し自分の時間が持てる様になっていた。
カラー写真の研究を再開しはじめた。
沢田先生とは慶応を卒業してもコンタクトを取り合っていた。
東京での教育研究会、修学旅行で東京に行った時には必ず訪問し近況を報告していた。
1988年の秋口、沢田先生ご夫妻が新築した信吾の家を見に行きたいと、信吾の元に電話が入った。
今回は飛行機で来旭すると言う。
旭川空港に、お世話になった慶応旭川クラブの面々と君枝共々迎えに出た。
到着ゲートで待っていると、例のピカソに似た風体の先生と澄子夫人が現れた。
澄子夫人は幾分やせて見える。
その日の夜、信吾の家で沢田先生ご夫妻を囲み、慶応旭川クラブの面々とオープニングハウスパーテーイを開いた。
先生は、矢張り信吾の暗室に興味を示し、大型の自動現像装置を見入っていた。
やがて、パーテーイも終わり、旭川クラブの面々は帰宅し、先生ご夫妻は信吾の家に宿泊するのである。
澄子夫人は君枝と話し込んでいる。
信吾は先生に今の心境を素直に話す。
それは教諭になって、実習助手の時代と異なり、哲学に充分な時間が取れなくなった。助手時代に芽生えた哲学的問題意識が眠ったままだ・・・。
と話すのである。
それに、対して先生は「当然だよ・・・。」と言うのである。さらに続けて「君は正直だ・・・。その気持ち(哲学的問題意識)が無くならない限り、また、その事に目覚めてくるよ・・・。」と言うのである。
先生は、信吾のところに一泊し、次の日、学会出席のため飛行機で東京へ帰った。
澄子夫人は、更に信吾の家に宿泊する。
その間、慶応旭川クラブの学生やお世話に成った人々が訪れて来る。
3日宿泊し、次に札幌で哲学の通学課程を卒業し、大きな老舗の和風料理店を営んでいている卒業生のところに行ってと言うのである。
信吾は、学校に年休届けを出し、札幌まで車を走らせた。
途中、滝川のサービスエリアで澄子夫人は「信吾君、ラーメン食べたいわ・・・。全部、食べきれないと思うから、残したら食べてくれる・・・。」と言うのである。不思議に思った。初めて聞く言葉である。
信吾は「あぁ・・・良いですよ。」と答え、ラーメンをオーダし、澄子夫人をそれとなく観察していた。相当疲れている様子だった。
連日、学生達の付き合いに疲れたのだな・・・。と言う感覚で見ていた。
やがて、札幌の卒業生のところに送りとどけた。
後に君枝から聞いたのだが、澄子夫人は肝臓癌に犯されていたのである。
澄子夫人は君枝との話の中で、信吾には口止めしていたのであった。
これも、後に聞く話であるが、札幌に着いたその日、澄子夫人は急に体調が悪化し寝込んでしまったのである。次の日、卒業生の夫人が付添い葉山(沢田家は芦名から葉山に転居していた。)に送り届けたのである。
直ちに、入院し一週間後、澄子夫人は亡くなるのであった。
1988年11月であった。
信吾は学校の観楓旅行で層雲峡のホテルに居た。
澄子夫人が亡くなった、その一報をホテルで聴いた。
信吾は観楓会を途中で切り上げ、旭川に戻り次の日、飛行機で東京へ向かった。
葉山の沢田家に着いたのは夕方近かった。
澄子夫人は奇麗なピンクのワンピースを身にまとい寝ていた。
周りに、先生を始め家族の方々、それにお世話になった学生達が澄子夫人を取り囲む様に座って、在りし日の澄子夫人の話をしていた。
清水景允
信吾は卒業生を送り出してから、少し自分の時間が持てる様になっていた。
カラー写真の研究を再開しはじめた。
沢田先生とは慶応を卒業してもコンタクトを取り合っていた。
東京での教育研究会、修学旅行で東京に行った時には必ず訪問し近況を報告していた。
1988年の秋口、沢田先生ご夫妻が新築した信吾の家を見に行きたいと、信吾の元に電話が入った。
今回は飛行機で来旭すると言う。
旭川空港に、お世話になった慶応旭川クラブの面々と君枝共々迎えに出た。
到着ゲートで待っていると、例のピカソに似た風体の先生と澄子夫人が現れた。
澄子夫人は幾分やせて見える。
その日の夜、信吾の家で沢田先生ご夫妻を囲み、慶応旭川クラブの面々とオープニングハウスパーテーイを開いた。
先生は、矢張り信吾の暗室に興味を示し、大型の自動現像装置を見入っていた。
やがて、パーテーイも終わり、旭川クラブの面々は帰宅し、先生ご夫妻は信吾の家に宿泊するのである。
澄子夫人は君枝と話し込んでいる。
信吾は先生に今の心境を素直に話す。
それは教諭になって、実習助手の時代と異なり、哲学に充分な時間が取れなくなった。助手時代に芽生えた哲学的問題意識が眠ったままだ・・・。
と話すのである。
それに、対して先生は「当然だよ・・・。」と言うのである。さらに続けて「君は正直だ・・・。その気持ち(哲学的問題意識)が無くならない限り、また、その事に目覚めてくるよ・・・。」と言うのである。
先生は、信吾のところに一泊し、次の日、学会出席のため飛行機で東京へ帰った。
澄子夫人は、更に信吾の家に宿泊する。
その間、慶応旭川クラブの学生やお世話に成った人々が訪れて来る。
3日宿泊し、次に札幌で哲学の通学課程を卒業し、大きな老舗の和風料理店を営んでいている卒業生のところに行ってと言うのである。
信吾は、学校に年休届けを出し、札幌まで車を走らせた。
途中、滝川のサービスエリアで澄子夫人は「信吾君、ラーメン食べたいわ・・・。全部、食べきれないと思うから、残したら食べてくれる・・・。」と言うのである。不思議に思った。初めて聞く言葉である。
信吾は「あぁ・・・良いですよ。」と答え、ラーメンをオーダし、澄子夫人をそれとなく観察していた。相当疲れている様子だった。
連日、学生達の付き合いに疲れたのだな・・・。と言う感覚で見ていた。
やがて、札幌の卒業生のところに送りとどけた。
後に君枝から聞いたのだが、澄子夫人は肝臓癌に犯されていたのである。
澄子夫人は君枝との話の中で、信吾には口止めしていたのであった。
これも、後に聞く話であるが、札幌に着いたその日、澄子夫人は急に体調が悪化し寝込んでしまったのである。次の日、卒業生の夫人が付添い葉山(沢田家は芦名から葉山に転居していた。)に送り届けたのである。
直ちに、入院し一週間後、澄子夫人は亡くなるのであった。
1988年11月であった。
信吾は学校の観楓旅行で層雲峡のホテルに居た。
澄子夫人が亡くなった、その一報をホテルで聴いた。
信吾は観楓会を途中で切り上げ、旭川に戻り次の日、飛行機で東京へ向かった。
葉山の沢田家に着いたのは夕方近かった。
澄子夫人は奇麗なピンクのワンピースを身にまとい寝ていた。
周りに、先生を始め家族の方々、それにお世話になった学生達が澄子夫人を取り囲む様に座って、在りし日の澄子夫人の話をしていた。