教諭時代 9
清水景允
1990年春に信吾は、普通科の理科から工業化学科に校内人事で異動をしていた。理由は工業化学科に実習助手の人事枠が一人増員となったことによる校内人事異動である。教諭から実習助手に降格したのではなく、専門学科に所属していると、教員特別手当の他に産業教育手当が付与されるのであって、将来的には大きいメリットが有ると言う、教育委員会の計らいであった。
信吾は、一増の実習助手の枠に教諭として異動辞令を受け取るのである。
1991年の年末になっていた。
校内では、来年度の学級担任の話が出る時期である。
信吾は、前回の生徒を卒業させて3年しか経過していないので、担任の話等来るはずが無いと思っていた。
当時、工業高校では、専門学科の教諭と普通科の教諭とが学年を挟んで交合に担任を受け持つシステムだった。
来年は専科(専門学科)からの担任である。従って工業化学科の中から担任を推薦しなければならなかった。
丁度、工業化学科には若い教諭が異動して来たので、その先生が担任を引受けると思っていた。
年が開け、冬休みも終わり3学期が始まると、直ぐ教頭に呼ばれた。
来年度の工業化学科一年の担任に成って欲しいとのことである。
信吾は、「若い先生が居るのでないですか・・・。」と言った。
すると、教頭は「あの先生には無理なのです。若すぎます・・・。もう少し担任以外の経験を積ませてあげて下さい。そうすると先生しか居ません。」
と言うのである。
工業高校では担任が開けると5年間はフリーの時間が取れる。しかし、信吾は3年目で担任を引受ける事になった。
1992年3月、信吾は50歳になっていた。
信吾は切り替えが早かった。
初めて担当したクラス担任の反省から、二回目の担任の業務が始まるのである。
清水景允
1990年春に信吾は、普通科の理科から工業化学科に校内人事で異動をしていた。理由は工業化学科に実習助手の人事枠が一人増員となったことによる校内人事異動である。教諭から実習助手に降格したのではなく、専門学科に所属していると、教員特別手当の他に産業教育手当が付与されるのであって、将来的には大きいメリットが有ると言う、教育委員会の計らいであった。
信吾は、一増の実習助手の枠に教諭として異動辞令を受け取るのである。
1991年の年末になっていた。
校内では、来年度の学級担任の話が出る時期である。
信吾は、前回の生徒を卒業させて3年しか経過していないので、担任の話等来るはずが無いと思っていた。
当時、工業高校では、専門学科の教諭と普通科の教諭とが学年を挟んで交合に担任を受け持つシステムだった。
来年は専科(専門学科)からの担任である。従って工業化学科の中から担任を推薦しなければならなかった。
丁度、工業化学科には若い教諭が異動して来たので、その先生が担任を引受けると思っていた。
年が開け、冬休みも終わり3学期が始まると、直ぐ教頭に呼ばれた。
来年度の工業化学科一年の担任に成って欲しいとのことである。
信吾は、「若い先生が居るのでないですか・・・。」と言った。
すると、教頭は「あの先生には無理なのです。若すぎます・・・。もう少し担任以外の経験を積ませてあげて下さい。そうすると先生しか居ません。」
と言うのである。
工業高校では担任が開けると5年間はフリーの時間が取れる。しかし、信吾は3年目で担任を引受ける事になった。
1992年3月、信吾は50歳になっていた。
信吾は切り替えが早かった。
初めて担当したクラス担任の反省から、二回目の担任の業務が始まるのである。