教諭時代 11
清水景允
一方、信吾の子ども達をみると、我が子の教育に付いては、全く君枝に任せきりであった。
いつの間にか、史子は北海道教育大学旭川分校の地理学科に入学していた。その大学からオーストラリアのアドレードの大学に短期留学し、続いて翌年、イギリスの西海岸BRISTOL大学に文科省の派遣留学生に選考され、一年間留学するのであった。
貴之は、君枝と史子の母校である高校に進学し2年生になっていた。
その高校で、野球部に所属しピッチャーとして活躍していたが、1年生の後半右肩の腱板損傷で投げる事が出来なくなっていた。
それで、信吾の車で週に一度、放課後札幌の医大に通い治療するのである。しかし、再起は出来なかった。それでも、貴之は、その怪我にめげることなく部活動にポジションをかえながらつづけるのであった。また、将来、野球が出来ない事から、勉学に励む姿が見られるのである。やがて3年生になり、学年で定期試験に10番以内の成績を取る様になっていた。
有る時、貴之の学校から大学への進路指導の資料としての用紙が貴之を通して信吾の元に届いた。
その用紙には信吾の最終学歴の欄があったので慶応義塾と書込んだ。
数日後に、貴之の担任から信吾の職場に電話が入り「貴之を慶応に推薦したい・・・。承諾してくれるか・・・。」との内容の話であった。
信吾は、その夜、君枝、貴之と相談し一にも二にも無く「よろしくお願いします。」と電話をするのである。
貴之は、慶応義塾大学法学部法律学科に進路が決る。
史子は、一年間イギリス留学のため卒業は延びていたが、翌年、小学校の教員採用試験に合格するのであった。
清水景允
一方、信吾の子ども達をみると、我が子の教育に付いては、全く君枝に任せきりであった。
いつの間にか、史子は北海道教育大学旭川分校の地理学科に入学していた。その大学からオーストラリアのアドレードの大学に短期留学し、続いて翌年、イギリスの西海岸BRISTOL大学に文科省の派遣留学生に選考され、一年間留学するのであった。
貴之は、君枝と史子の母校である高校に進学し2年生になっていた。
その高校で、野球部に所属しピッチャーとして活躍していたが、1年生の後半右肩の腱板損傷で投げる事が出来なくなっていた。
それで、信吾の車で週に一度、放課後札幌の医大に通い治療するのである。しかし、再起は出来なかった。それでも、貴之は、その怪我にめげることなく部活動にポジションをかえながらつづけるのであった。また、将来、野球が出来ない事から、勉学に励む姿が見られるのである。やがて3年生になり、学年で定期試験に10番以内の成績を取る様になっていた。
有る時、貴之の学校から大学への進路指導の資料としての用紙が貴之を通して信吾の元に届いた。
その用紙には信吾の最終学歴の欄があったので慶応義塾と書込んだ。
数日後に、貴之の担任から信吾の職場に電話が入り「貴之を慶応に推薦したい・・・。承諾してくれるか・・・。」との内容の話であった。
信吾は、その夜、君枝、貴之と相談し一にも二にも無く「よろしくお願いします。」と電話をするのである。
貴之は、慶応義塾大学法学部法律学科に進路が決る。
史子は、一年間イギリス留学のため卒業は延びていたが、翌年、小学校の教員採用試験に合格するのであった。