教諭時代 13
                清水景允

 信吾のクラスは3年になり卒業年度を迎える。
クラスの全員が思うところに進路が決まった。
注目すべき事は、職業高校でありながら、信吾のクラスは大学への合格率が高く、慶応に、北見工業大学に、札幌大学にと、他10名の生徒がそれぞれ希望する大学に進学するのであった。
信吾のクラスは、隠れた受験校と呼ばれるのである。
 学級通信は1995年2月10日、第654号で毎日発行していた「化学者の『金のたまご』」は終刊となるのであった。
その、第654号には、当日18歳になった生徒を紹介し、続いて、「これで、この学級通信も終刊となりました。今日で654号、君達の心に何かが残っていれば『金のたまご』の意味もあったのでないかと思います。これからもガンバレ」としか書いていなかった。
 3年生は3月10日の卒業式まで家庭学習期間に入り学校へ登校する必要がなくなる。
 信吾は53歳になっていた。

 担任を離れた信吾は、その年、校務分掌(学校内で行なわれる教科外の学校運営上の仕事)に生徒会会計の仕事を学校長より委託された。
事務処理の監査、及び生徒会での会計上の責任者である。
仕事内容は、各部活動の予算決算の管理、執行状況の把握である。
信吾は、金銭には手を触れないということで承諾し、学校長、事務長を交え生徒会会計業務について、信吾の考え方を話すのである。
一つ 現金には一切手を触れない。全て事務職員が行なう。
二つ PC(パーソナル コンピュータ)による現金出納帳のソフトを開発し、それを使用して現金の流れを明確にする。もちろん、手書きの現金出納帳は事務職員が担当し、月末にPCによる記載と突き合わせる、ことを約束するのである。
 春休みから、信吾はPCによる現金出納帳のソフト開発に取組むのであった。
信吾は、教科で情報処理技術を担当していたのでソフトを開発する事には苦にならなかった。
と言うのも、写真を趣味とし、写真開発に注いでいたエネルギーを、写真を止めた以上、何かに向けなければ精神的に鬱状態になりかねなかったのである。
1年目は、試行錯誤しながらソフトの開発に努めたが、2年目に入るとそのソフトが軌道に乗り出した。