日本における「情報化社会」とは何か・・・  No.8   清水 景允

 前回は、日本の「情報化社会」の誤った認識が、産業社会と異なる環境破壊へと進み、生態系の破滅を予測されると結論付けしました。今回は、この問題には人間の本質にかかわるもっと根深いものがある様な気がし、近代文化の発展は、はたして人間を幸福にしているのか。と言うところまで掘り下げて考えてみたいと思います。

 No.5で考えた通り近代社会は、産業社会の本質である科学信仰が、それに基づく技術を通して拡大してきました。確かに、その一つひとつの部門をとってみると人間社会は良くなっていると言えるかもしれません。例えば、鉄道には高速列車が走り、札幌東京間を4時間切るところまで来ています。空には飛行機が同じく札幌東京間を2時間切りました。その意味では、より良くなった。便利になった。と言うことが出来る訳です。

 しかし、私達は便利になった日常の生活を営んでいるなかで、常に不安を抱えているのでないでしょうか。例えば、誤った情報のコントロールのために生活していく中で起きる事故、事件があります。人間社会には法の下で生活していかなければなりません。つまり、決まりごとの中で生きていかなければなりません。ですが、その決まりを守っていても、どうすることも出来ない出来事に遭遇することがあります。その出来事の中に、近年人災事故が多くなっているような気がします。その最たるものが「公害」という言葉で代表される責任者の明確でない環境破壊問題があります。その最たるものが原子力発電事故です。ここでは、この原子力事故に付いては取り上げませんが、正に科学技術信仰の対象に霊があるなら、その悪霊による災害とものと言うことが出来るのでないでしょうか。その悪霊は人間が作ったものです。さらに、人間の内においては、生活を豊かにするかに見える物質が豊富に出回っている中で、精神的に満足させる物がだんだんと消え去っているのです。活字離れする人々の出現、これは考えることをさせない視覚による映像文化の出現が影響しています。このことは、産業社会の落ち行く先を暗示している様な気がするのは私だけでしょうか。

 これでは、健全な社会生活を送ることができません。今日のアンタゴ二ズム(哲学用語で敵対意識)を生み出したのは、この科学信仰の結果と言うことが出来ます。ここで、もう一度、科学とは何かについて真剣に考えなければならない時に来ている様な気がします。

 今回8回に渡って「日本における『情報化社会』とは何か・・・」と題して、私独自の意見を述べさせていただきました。結論から云いますと、この「情報化社会」とは「産業社会の次ぎに来る社会」を摸索し始めたところにありましが、日本の場合は、その方法論だけに目を向け、戦後教育を受けた一部の人間による情報(映像も情報の一部)のコントロールが、地球上の生態系に大きな汚点を残すところまで来ている様な気がしてなりません。人間の成長に例えると、言葉を覚え、その覚えた言葉を己の成長のみに使用し、他者との共存のために使用することを忘れてしまった様な気がしてくるのです。その意味では、日本だけでなく、世界の殆どの國も、一部の人々を除き、まだ情報化社会に気付いていないように見えて来るのです。

 8回に渡って、私勝手な考えをブログに投稿させてもらいましたことをお許しください。またチャンスがあれば、水素社会と情報社会との関係、新しい歴史の中での人間の生活を考えてみたいと思います。

 私の自叙伝「大雪山」の補足として投稿いたします。

(参考文献:沢田允茂著 講談社学術文庫「ライフサイエンスの哲学」)
(参考文献:日本科学者会議編 リベタル出版「地球環境と原子力」)
(参考文献:岩波講座 岩波書店「哲学15 宗教と道徳」)
(参考文献:沢田允茂著 岩波書店「認識の風景」
(参考文献:沢田允茂著 岩波書店「九十歳の省察」)
追伸 この「九十歳の省察」は先生が亡くなる三日前に原稿用紙にピリオドを打った遺稿です。