退職後の信吾 7
               清水景允


 「お別れの会?」の席で、大田区民大学で先生の講演を聴講していたご婦人達と会話をすることができた。
それぞれの人たち全員が沢田先生の度量の広さに尊敬の言葉が出てくるのである。その人達も先生の亡がらを前にして涙を見せることなく、区民大学でのエピソウドを話すのであった。
 また、別のテーブルでは、先生は麻雀ゲームをするのが好きで、麻雀の話が出ていた。先生は、賭け事は一切しない主義で、その理由を話すのである。先生は「奇麗なゲームをしたい。それが、欲が絡んだらそっちの方に気が取られ、奇麗なゲームが出来なくなる。」というのである。
 信吾にも頷けるものがあった。

 慶応旭川クラブの仲間が信吾に麻雀を教えるということで、一ヵ月に一回から二回の割でそれぞれの家庭を持ち回りで麻雀を信吾に教えてくれるのである。ある程度、信吾も憶えたかけた時、友達は「何かをかけよう・・・。かけた方が、上達が早くなるから・・・。」と言い出したのである。その時、信吾は先生の麻雀のゲームに対する考え方を知っていたので、その影響が有ったのであろう、「どんなものでもかけてまで麻雀を憶えたく無い・・・。」ときっぱり言い切ったのであった。以後、信吾は麻雀をしなくなった。
 その夜、遅くまで斎場で先生の想い出話で時間を忘れ盛り上がった。参列者は、300人は居たであろう・・・。
信吾は夜遅く、品川のホテルに帰るのであった。

 次の日は、普通なら葬儀である。
斎場に300人近くの参列者が入っていた。
施主の誠氏の司会で「送る会?」が始まった。
いきなり弔辞である。
まず初めに慶応義塾の塾長の弔辞である。
続いて、哲学会の会長の弔辞、他何人かの弔辞が済むと、最後の弔辞は、通信教育課程の学生自治会で元委員長を勤めた九州からの学生で慶応を卒業後、東京都内で小学校の校長を勤め退職した仲間の弔辞である。
 一人が15分から20分の弔辞であった。
約一時間半の時間が、これほど短く感じたことはなかった。

 出棺の準備に入る。
蓋を閉じる前にもう一度、先生の顔を見た。
全く眠っている様で、微笑を浮かべているかの様なデスマスクが、今も心に残るのである。
火葬場についた。
読経も説教も無い。全く事務的にことが進んで行くのである。

 人の死というものを、これほど感動を与える様に「送る会?」を行なって行くのには、喪主の桂子婦人、施主の誠氏をはじめとして家族との間でしっかりと先生のリビング・ウイルが伝わっており、それを実践した誠氏に敬意を称するのである。
 以後、信吾の人生観が変わっていくのである。
 信吾が64歳の秋であった。
 
 ずっと後のことであるが、信吾は一般財団法人日本尊厳死協会の会員になり、その会の北海道支部旭川地区懇話会の事務局長になるのであった。