教諭時代 18
                清水景允


 信吾は定年退職を一年後に控えていた。
この頃になると、同じ定年退職を迎える先生達が、顔を合わせると退職後の話が出る様になる。
よく聞く話であるが、
「趣味に生きる・・・。」
「旅行三昧して楽しむ・・・。」
「孫と余生を過ごす・・・。」
等々である。
また、退職後の生活環境の変化に伴う健康相談の話を聞く機会が持たれる様になって来る。
その中で興味のある話を聞くのである。
それは、当時、高校教員の退職後の平均寿命は65歳と言う事である。
60歳で退職し5年後に半分の元教員が死んでしまうことになる。
俗に言う、燃え尽き症候群と言うものである。

 信吾は退職後やる事があった。
それは、若い時芽生えた哲学の問題を研究することであった。
しかし、研究をすると言っても信吾の生活費は稼がなければならない。
退職金及び年金が出る・・・。と言っても、信吾は退職金、年金は、全て君枝のものと心に決めていたのである。
 理由は、二人の子供の学齢期に信吾の給料だけでは、東京の大学に行っている貴之に仕送りなど出来なかった。幾ら奨学金が出ていると言っても、突然の出費がかかる。その都度、君枝は内職をしながら送金するのであった。
 史子についても、文科省の派遣留学生で旅費生活費は大学から出ると言っても、史子が見知らぬ外国でひもじい思いをさせたくない。と言う親心から生活費の一部を持たせるのである。
 それよりも、信吾は経済的感覚が全く無く、教員在職中、信吾の個人的な研究費は家計の中から捻出してもらっていた。
君枝は、それに対して一言も小言を言わなかった。
 信吾が教員を退職する頃になると、子ども達は、それぞれ社会人で子ども達への金銭的心配は無くなっているとは言え、退職すると給料が出ない。
君枝に経済的に不自由な思いをさせたく無かったのである。

 北海道旭川工業高等学校に入学して42年間、約半世紀お世話に成った学校を退職するのであった。