教諭時代 3

                清水景允


 1987年、信吾は45歳になっていた。
史子は中学3年生になって、年を開ければ高校受験である。
北向きの4畳半の部屋で受験勉強をしている。
その部屋に、我々が床に着き寝入った頃、史子が受験勉強をしていると、静けさの中、家ネズミ(ハツカネズミ)が出て来るのである。
また、日光が入らない4畳半で年を通して湿気が多く、畳の所々にキノコが生えて来た。
トイレは台所の隣で、汲取式のトイレである。
台所に行くとトイレに消臭剤を置いても臭ってくる。
そんな生活環境の中で、君枝は体調を壊し病院に入院するのである。
酒もタバコもやらない君枝が肝臓の病気を患うのであった。
信吾は、家族の生活環境をかえなければ、この校宅から葬式を出すかもしれない、と考えるのであった。
 
 家を新築する事を真剣に考えだした。
親と一緒に住まなければならないので二世帯住宅である。
土地探しが始まった。
はじめ、学校の近くの丘の上で、大雪山が見える土地を探した。
なかなか思う土地が見つからない。
丁度、親父が東旭川に70坪近くの小さな宅地を購入していた。
そこで、その土地に二世帯住宅を建てることにした。
業者との打合せが始まった。
君枝は打合せに参加できる状態ではない。病気が重かった。
家の図面は信吾が書き、業者はそれを元に設計図を書き上げるのである。

 2階の陽の当たるところを親の居住スペースにした。8畳、6畳、4畳半、それに3畳の親父のカラオケ部屋を作り、8畳の居間に台所を設置した。それぞれの部屋に押し入れが付いている。
もちろん2階にトイレを付けた。
階段は16段で普通より緩やかである。
 1階は我々の居住空間で12畳の居間と6畳の寝室、同じく6畳の和室を作った。それに4畳半の台所、浴室、脱衣所、トイレを作った。
2階のトイレ、1階のトイレは簡易水洗トイレにした。
この宅地には下水道が、まだ設置されていなかったので簡易水洗トイレにしなければならなかった。それでも、当時として最新式のトイレであった。
 2階には、親達の生活スペース以外に、子ども達の部屋を作り、信吾の暗室も作った。
その暗室には、1m×2mまで現像が出来る自動現像装置を設置した。
車庫は半地下にし、物置を車庫の隣に作った。
総坪数60坪を超えていた。

 新築のコンセプトは、健康を第一に考えての設計で、親が住みやすく、それぞれのプライベートを尊重した間取りに神経を使った図面である。
暖房は、オール電化の勧めがあったが、北海道電力会社が原子力発電に移行を考えているようなので断り、石油暖房にした。
建設費は全て信吾が共済組合からローンを組んだ。
 
 起工式は5月初めに行なわれた。
それから棟上げと進んでいった。
時間を掛けて建設してもらった。
理由は、来春、史子の高校受験、貴之の中学校に入学するため途中で子ども達の環境を変えたく無かった。
11月に受け渡し式を済ませ、新しい住宅は信吾のものとなった。
 親達は、即入居した。

 君枝の肝臓は一向に良くならない。入院先の病院でインターフェロンの話が出ていた。信吾は覚悟をするのである。
 年が明けて3月、史子は永山中学校から北海道旭川東高等学校の入学試験に合格した。この高等学校は君枝の母校でもあった。
貴之は永山小学校から旭川中学校にと進学した。
君枝は体調が思わしくなく、引っ越し準備は全て君枝の母親にお願いするのである。
3月末に新居に転居することができた。