「『絶対』なんてない」という絶対 | きまぐれ倉庫番報告『しん♪』の小言 in BC DN PSO2

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「絶対、そんなことできるわけないよ~。」
「『絶対』なんてないわ!」
「いや、『絶対』的なことってあるよ。」
「いや、ないね。」

・・・子供の喧嘩みたいですねw
「いつ?誰が?どこで?地球が何回回った時?証拠は?」とか。
今思えば、覚えたての言葉を言いたいだけやん、と思ってしまうバカバカしい言葉の押収ですね。

でも、きっと、『絶対』という言葉について考えると、
哲学的で、深い考察を得る事ができると思います。


さて、人は考察するとき、論理的に考えると思います。
『感情』も感情論という理論で、論理が適用できると考えると、
理性的な人間の行動や、人間が観測できる自然現象については、すべからく論理的であると言えるでしょうし、
「論理」という道具で、情報を整理できるということですね。

もちろん、衝動的な行動もあるでしょうし、すべての自然現象に対して人間の論理が当てはめられるとは思っていませんが、
人間は、観測的、時間的存在であるとすれば、やはり、人が観測する人間主観な捉え方について、論理を適用できるのかもしれません。人が何かを理解し、思考する上で、論理が前提となっているからですね。


・・・何がいいたいかと言いますと、
人が何かを考察して、物事をとらえたり理解しようとすると、『論理』が前提となります。

最初に例をあげた『絶対』という言葉は、あるのかないのか。
これについて、論理的な結論を、1つ提示させていただきましょうか。

結論:
『絶対』はある が 『絶対』はない

・・・ぷw
我ながら意味不明w

うまく書けませんねw


『絶対』はそもそも程度を表す言葉なので、それ事態の有無を論じる事がナンセンスだと、
私は考えているので、、、


ようするに、この命題は、論理のすり替え、論点をずらした、議論と言えるのかもしれません。
厳密には、前提をすり替えた、とでも言えるのかもしれませんが。


論理的に考えるには、
推論、という言葉があるように、論理と論理を組み合わせて、新しい論理を導く、
という方法が多くしられていると思います。

論理を展開、結合することで、結論を導く、ということですね。

ところが、他人と会話していると、多くの場合、
認識の食い違いが起こりますね。
一人で考えていても、同じ考えがくるくる回ることもあります。

これは、論理的に考える上で大事な
『前提』『仮定』『背景』がボヤけているから、ということも少なくありません。

あらゆる理論には『絶対』はなく、その反対も命題として提示する事ができます。
前提や仮定が変われば、命題の真偽も変わるでしょう。
これが『絶対』はない、という部分。

この『前提』『仮定』『背景』。
一番難しいのは意識できていない『公理』を意識することだと思います。

『公理』系は、論理の土台であり、論ずる上で『絶対』のものです。
これが崩れると、すべての理論が成り立ちません。
これが『絶対』はある、という部分。

たとえば、
『整数を1から100まで数えるときに、1の次は2 である。』
という命題。

これは『絶対』だと思いますか?


『絶対』だと答えた人は、
「整数」「1」「100」「数える」という単語に、共通の公理系・認識があるからです。

整数は、1、2、3・・・と数えるものである。といったいわゆる『当たり前』なこと。
これは『絶対』なのです。

逆説的に、公理系を変えれば『絶対』ではなくなります。

「整数は、1、4、6、3、5、2、8、9、7、10・・・と数える」という公理系で物事を考える人は、
1の次は4なわけです。

人と話すときに話や意図が通じない、という時は、お互いが「あたりまえ」「当然」と思っている事柄が、違うことも多いのだと思います。


つまり、『絶対』的な何かの上で考える時、『絶対』だと言える命題はなく、
また『絶対』的な公理系を否定することはできるため、その『絶対』性はより大きな公理系の中では『絶対』ではない。

「『絶対』はあるかないか?」という議論をする上で『絶対』はあるけれども、
議論の上では「(ただ漠然とした)『絶対』はない」。

仮定を絞れば絶対なことはあるでしょうが、仮定を疑える、変更できる場合では、絶対は揺らぎます。
疑えない、変更できない「公理」についてのみ、絶対は言えます。

ただ、議論をその「公理」の外まで拡張すれば、その「公理」だったものは公理でなくなり、絶対ではない。


・・・ふふふ。言葉遊びの世界かもしれないですが、論理を論ずる上で、仮定や公理といった前提を正確に認識することは大事な事です。

結局、ある『公理系』についての絶対性・正当性・無矛盾性は、その『公理系』の中で論じることはできず、解を求める事ができませんよね。

『絶対』という事象があるかどうかを論じる事は、論じる事がナンセンスなんですよ。

論じる以上、『絶対』はあるけれども、その『絶対』以外の『絶対』はないんです。

同じ『絶対』という言葉ですが、論じる間にでてくる『絶対』という言葉の定義やニュアンスは、同じ物ではないということですね。


言葉遊びで、不思議な気分になるのは、こういった定義や公理が曖昧なものが、言葉の音だけで同じものだと錯覚してしまうものだから、なのでしょうね。

落語の世界も同じような物ですね。
大喜利の世界など、音は同じでも意味が違う、といったトンチや洒落は基本ですからね。