瀧音能之 監修 『空白の4世紀』 | 国道179号沿線住民とっ散らかりブログ

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楽器もできない音楽好きのおっさんが
中坊並みの文章力で書いてるブログ。
撮影地:山陰本線・東浜駅付近



読むのに苦労しました。
情報量の多さと、固有名詞が沢山出てきて脳内でこんがらがる。
覚えきれませんので流れだけサラッととしか頭に入らず…(-_-;)

ザックリいうと、空白の4世紀・空白の150年とは、西暦250年~400年にかけての
弥生時代から古墳時代への移行期、
中国最古の歴史書「漢書」紀元前1世紀頃の記述に
「倭人、国は100以上に分かれており~」

前漢滅亡後、西暦8年「東夷の王、海を渡って~」とあり、
東夷の王とは九州北部の王と考えられる(だって)
西暦57年には「奴国」の使者が、107年には「倭国王・帥升」の使者が後漢に朝貢、
2世紀後半に起きた「倭国乱(大乱)を経て、卑弥呼が登場、
3か国に分裂していた中国王朝の中で「魏」へ朝貢については「魏志倭人伝」に
記されているが、その後「魏」が滅亡し、後継国家・西普が建てられ
266年、倭国の使者が朝貢の記述を最後に、中国の歴史書から倭国の記述が途絶える。
この時の使者が台与政権(卑弥呼の後継者)が派遣したもの。
次に現れるのが「宋書(5世紀後半成立)」の421年
倭の五王と呼ばれたヤマト”王権”の王による朝貢であり、この約150年間が
「空白の4世紀」と呼ばれる。

大和朝廷ではなく、ヤマト”王権”としているのは、朝廷と呼ばれるようになったのは
律令国家として始まる奈良時代になってからで、推古天皇も正確には
推古大王(おおきみ)
本著でも便宜上「おおきみ」じゃなく「天皇」で進めてますけど。

日本における最古の歴史書は、言わずと知れた「古事記」(712年)
最古の正史である「日本書紀」(420年)(以下『記・紀』と省略)
いずれも8世紀前半の歴史書であり、神話的な記述も多く、その内容を
そのまま史実とするのは難しい。
「日本書紀」の記述が考古史料と一致するようになるのは5世紀前半の
21代雄略天皇の時代から。

『記・紀』が成立した8世紀前半は、ヤマト王権から律令国家へ
(律令国家、簡単にいうと法をもって統治すること)
大王(おおきみ)から天皇へ大きく政治体制が変化した時代であり
歴史書の編纂には新政治体制に都合がいいように政治的意図が反映された
ことは間違いない反面
創作的エピソードや脚色が加えられたものの、空白の4世紀の史実を反映している
可能性は否定できず、機銃に考古学的なアプローチを加えることで「空白の4世紀」の
実像に迫ることができるのもまた…

実際、在位年数からして100年以上生きてないと繋がらない大王が存在してたり
昭和15年が初代・神武天皇から数えて皇紀2600年だから今年令和8年は
皇紀2686年だって鵜呑みにしちゃいかんよ、って話で。

4世紀の大王と考えられる天皇の系譜として。7代・孝霊天皇以降
多くのページを割いて書かれてますが、(系譜は拝借してきました)


曰く付きの孝霊天皇、日本書紀では「127歳!?」まで生きてることになってるし、(;゚Д゚)!

ただ興味深いのは、孝霊天皇の子孫に「キビツヒコ(吉備津彦命)」と
その横「モモソヒメ」が卑弥呼ではないか?と、そのスジで本著は進んでます。

驚いたのは、ヤマト王権の大王は1人ではなかったとし、祭祀王と執政王の二重王権でスタート
祭祀王が卑弥呼で、「魏志倭人伝」には、卑弥呼には男弟が国の統治を補佐
したことが記されている他、卑弥呼の死後に速やかに男王が立てられている。
7世紀「隋書」倭国伝には「倭王は天を兄、日を弟としていて、日が昇ると
弟に任せて政務を止める」とあり、卑弥呼政権以来、2人の統治者が並立する
政治体制だったことが示されている。

信じるか信じないかは・・・だって、そう書いてあるんだもん、m(_ _)m