谷良一 著 『M-1 はじめました』 | 国道179号線沿線住民とっ散らかりブログ

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楽器もできない音楽好きのおっさんが
中坊並みの文章力で書いてるブログ。
撮影地:伯備線・豪渓駅周辺、通称セリカカーブにて



これ、メッチャおもしろかったです。というのも第1回からから見てるからでしょうし
この本はその第1回を立ち上げて作ったまでしか書かれてませんが、出演者もほぼ忘れてて
なにせ22年前のことですし、ネタも優勝した中川家しか覚えてなくて。
そんな初回放送がどうだったかも思い出しつつ読んでました。
私、ゼロから1を全く創造できない人なもので、こういった”1を作る人”はどのジャンルであっても
尊敬してやまないです。

時は2001年、当時の木村常務に突然呼び出され
「低迷してる漫才を復活できるようなイベントを考えてくれないか」というのが発端。
私も「?」だったんですが、今は漫才全盛と言っていい状況ですが、当時は「そうだっけ?」とピンと来なくて。
この当時、瀕死状態だった吉本新喜劇が軌道に乗って盛況な反面、漫才って忘れ去られ
隅に追いやられた低迷期で。
まず、若手はNGKの舞台に立てない。
代わりに向かいにある「baseよしもと」ここでもコントは演るも漫才は半ば禁止のお達しが
出ていたという。
コントってある程度の脚本とセット、道具に音効があれば、漫才のように間とか呼吸が
コンマ数秒ズレたとて、なんとかなるもので若手の漫才師も、
漫才というより”ダウンタウンばりのフリートーク”が幅を利かし
(というのも仕方がない面もあり、baseよしもとの客層のほとんどが若年層の女性で
人気投票で出演が決まるのだが、ネタよりもルックスで決まる面もあって漫才より
フリートークだったりコントやゲームみたいな出し物が好まれた)
かといってダウンタウンほどの腕があるわけでもないので漫才の体をなしてないフリートーク
というのもおこがましい”雑談”でお茶を濁す程度のものばかり。
そんな中、中川家にブラックマヨネーズ、チュートリアルにフットボールアワー
など実力があるコンビはいるものの、NGKには出られない”baseよしもと止まり”でくすぶっていて。

そんな状況を打破すべく、まず関西TV局に漫才特番を不定期放送できるまではできたものの
全国ネットでもっと売り込むには?となると行き詰って、島田紳助氏の楽屋に押し掛け相談。
そこで出たのがまさにM-1の原型、コンテスト形式で優勝者だけ1000万円、2位以下はゼロ
出場資格はプロアマ問わず、芸歴10年以下、というもの。

ここで一番の問題が、1000万円出してくれるスポンサーを見つけること。
あちこち当たるも全部断られる、そりゃそうだ。
漫才コンテストを誰が見るの?それも漫才って(2001年当時)じゃ”オワコン芸”で。
伝手を頼ってオートバックスセブンが受けてくれる確約は取り付けた。

こんどは全国放送してくれるキー局を探すこと。
最初に行ったのが日テレ、バラエティー班当時のトップは電波少年で有名な「土屋D」
土屋氏の考えとは全くかみ合わず(電波少年みたく筋書き無しの行き当たりばったりの偶然の演出
谷氏の考えるコンテスト形式とは真逆)
テレ東とはもっとかみ合わず、アナザーストーリーありきでないとやらない。
例えば漫才師の親が瀕死で看取りより漫才を選んだというような過剰な演出
よって漫才の実力より、仕込みでないアナザーストーリー有りの漫才師が優勝しないと。
なんてのは話にならなさすぎてその場で却下。

フジテレビはいい感触があったものの、漫才のカメリハの現場で愕然としたという。
なにせカメラ割りからしてなってないというか、漫才の撮り方がわかってない。
漫才師の喋ってる側だけをアップで抜き、聞いてる方は映さず、喋る側が変わればまた片方だけ映す。
もっとショックだったのが、舞台上のサンパチマイクの電源が入っておらず
漫才師のピンマイクから音を拾う録り方、これではどうしようもなくて
サンパチマイクで2人をバストアップでカメラを固定して撮るというような初歩の初歩から
教えて行かないかんのかと考えたら・・・
フジテレビでさえ、漫才の撮り方すらADどころかPですら知らないという現状に落胆したと。
そこまで漫才ってものを誰も知らない、忘れ去られた演芸なのかと酷く落ち込んだと谷氏。

灯台下暗しとはよく言ったもので、朝日放送(ABC)が受けてくれるという。
キー局・テレ朝でABCが持ってる2時間枠があるから、それでどうですか?というので
全国放送の目処がついた。

スポンサーと放送枠は確保できた。あとは出演者の募集、片っ端から声をかけてまわったが
中川家でさえ、あまり乗り気じゃなかったというのも致し方ないところも。
だってまだ1回も放送していない、いや、放送できるともいえない状態でもちろん認知度ゼロ。
他事務所に声をかけるも「どうせ吉本が勝つようにできてるんでしょ」と疑念を持ち
「あれに応募したやつは所属から外す」とまで言い出す芸能事務所まで出てくる始末で。

それらの誤解を払しょくするには、島田紳助氏の力と審査員に松本人志を参加させ
TV・新聞・マスコミに売り込み、もちろん優勝賞金1000万円も大々的に宣伝を打ち
ビラも作って芸能各所に配りまくって周知させるところまでには至る。
決勝進出者を集めてマスコミ発表、段々と真実味が帯びてきた。

そして12月29日第1回M-1グランプリが、滞りなく放送、優勝は中川家、
そして元旦にNGKの舞台に立ち、劇場には立ち見が出るほどの大盛況。
翌2002年お笑いNSC入学希望者が例年の3倍になったとNSC校長から喜ばれたと。
なにせ年2期で2000人の入学者、一人当たり授業料40万円x2000人だからね。
M-1大成功から数年後、フジテレビがオファーを受けなかったことを酷く後悔したと打ち明けられ。

その後のM-1は年末の風物詩までに定着した感もあって、私も欠かさず楽しみに観てます。
M-1の成功を受け、キングオブコントをはじめ、”二匹目のどじょう狙い”も含めて
お笑いコンテストはこれでもかと”増えすぎた感”も無きにしも非ずですが。

もう読み終えるかと思ったところに”あとがき”が島田紳助氏の文章が。
島田紳助という名前にも、やや懐かしくも出てきたところに、最初は帯を書いて欲しいと依頼
すると快諾、帯にしてはあまりに長文が送られてきたので、それをそのままあとがきに載せ
↑画像の帯にもあるように「M-1は、私と谷と2人で作った宝物です」
ずっと「M-1は島田紳助が一人で作ったもの」という定説が言われ続けて
芸能界から身を引いた今でもそういわれ続けてることが心残りの一つだと島田紳助氏。
その誤解を解いておきたいとの思いは持ち続けてたそうで、この本を上梓する際の帯文依頼を
快諾したのも、M-1は島田紳助だけがつくったものという誤解を解くのはいい機会だったと。

M-1グランプリの成功が、今日の漫才の隆盛のきっかけを作ったのは間違いないと言い切れますね。
m(_ _)m