白井聡著『主権者のいない国』を引用したシリーズは、約1年前のこと、↓
他に丸写ししてたのを、すっかり出すタイミングを見失ってしまってて1年経って
取り上げたい時事ネタに対して少し関連してる部分があるんじゃないかな?
ということで、かなり長文になると思うとともに、壮大なマクラ(前置き)です。
では、本から丸引用します。
>「社会は存在しなくなった」とは、マーガレットサッチャーがインタビューで述べた言葉。
(言うなれば新自由主義は社会を消滅させたと言い換えられないか)
身近なところから挙げるならば、私が大学で教育活動で催事するなかで、膨らんだ違和感。
学生らに「自分が気になる社会問題を挙げて、簡単にプレゼンテーションしなさい」
という課題を出すと何も答えられない。
こうした「この人たちにとって社会は存在しないらしい」と実感させられる
経験はいくらでもある。
「報道機関の報道内容は必ず正しいとは限らないのだから、懐疑的な意識をもって
新聞は読むようにしましょう」というメディアリテラシーの基礎を教えるということは
いまや夢の夢となり、「せめてテレビくらいは観るようにしましょう」と指導しなければ
ならなくなったとき、「この国は底が抜けた」と実感せざる得なくなった。
問題は「底が抜けたかどうか」ではなく、一体どういう底が抜けたのかと見極めることなのだ。
全般的な投票率の低下、とりわけ若年層における著しい低迷も、当然この文脈にあるだろう。
「政治的無関心」という従来多様されてきた言葉では到底言い尽くせない、
巨大な「無関心」がある。
「複雑で腐敗して期待外れだから、政治に対しては嫌悪感しか持てない」といった
分析化を経た無関心でなく、もっと根源的な深淵のごとき無関心がある。
政治のみならず社会全般に対して関心がなく、あたかも社会など存在しないかの
ような感覚が、そこにはあるのだ。
だから「社会問題について話せ」と要求された学生の困惑も、ある意味でもっともなのである。
人は存在しないものに対して関心を持つことはできない。
>「社会は存在しない」という命題の文化的等価物が、サブカルチャーにおける
いわゆる「セカイ系」であろう。
東浩紀氏によると「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性の問題が
”具体的な中間項を挟むことなく”「世界の危機」「この世の終わり」などといった
抽象的な大問題に直結する作品群のこと」であると定義される。
「背K際の危機」に立ち向かう主人公にある英雄譚(ひょう)という設定は
なんら新しくないが「セカイ系」の特徴は(中略)「ぼく」「きみ」(プラスα)の
極私的的な関係性が即「世界全体」へと拡大されてしまう。
例えば近年の大ヒットアニメ映画「君の名は」などは、顕著に「セカイ系」である。
同作品の筋書きの奇妙さは次の点にある。
>時間旅行をした主人公の高校生が天災による破局の到来を知り、人々を救うべく
避難を呼びかける。
だが当然、その警告は荒唐無稽な戯言として、大人たちから避けられてしまう。
そこで主人公たちは、もう一度大人たちの説得を試みて今度は成功し、
破局は回避されたとして大円団を迎える。
奇妙なのは、この再説明の過程こそ物語のヤマ場となるはずが、底が具体的に
全く描写されてないことである。
どうやって説得したのかを全く説明抜きで、なぜか大人たちは説得されたことになり
避難は成功する。
まさにこの物語の「セカイ系」の「セカイ系」たる所以である。
「言うこと聞いてくれない大人」とは、即ち「社会」そのものであり
「具体的な中間項」に他ならない。
これがどうにもならないメンドクサイものなので都合よくスキップしてしまう、
(そして世界は救われたことになる)ことにおいて「君の名は」は、まことに
「セカイ系」的な作品になっている。(終わり)
ここまでがマクラです。
次回、これに関連した事案(ややこじつけがましいですが)を結び付けて書きたいと考えてます。m(_ _)m
これで終わりかと思ったら、2月11日になって続きの文章がひょっこり出てきた。
書き終わって読み返してみると、なんだか「尻切れトンボみたいな終わり方だな」と
不思議に思ったのが間違いではなかった。
そこで今になってですが、続きの文章を足しておきます。
これで繫がるのではないかと。
上の文章、「セカイ系」的な作品になっている。の続きから。
「セカイ系」的な作品になっている。
してみれば「セカイ系」とは、社会の存在の否認の表現であるが、それと同時に
社会からの阻害の痛切な表現であるとも言えよう。
社会というものが人々にとって、どうしようもなく動かしがたく、不快感のみを与える
疎ましいものとして認識されたとき、それがあたかも存在しないかのごとくふるまう。
その存在を否認するという心性が、そこに現れている。
もちろんそのようなふるまいは、逃避に他ならず、オタク的欲望、即ち万能感を
手放したくないという幼児性願望のなせる業である。
(中略)新自由主義は、その直接的効果としては企業権力と国家権力の途方もない強大化をもたらす。
それは、その反面では個人の無力化と受動化を意味する。
(中略)してみれば、社会をスキップする「セカイ系」とは、いまや絶対的不動のものとして
個々人の前にそびえ立つ社会によって圧迫され、ひたすらに無力化された個人が
この自らを阻害するものを不快さゆえに否認し、幼児的願望のなかに逃避する
ものとして現れている。
それは個人と社会の弁証法的関係性の崩壊の表現となっており、新自由主義の進行こそ
その崩壊と並走してきたのであった。
かくして社会は壊れたのではない。存在しなくなったのだ。m(_ _)m