
歴史書はほぼ勝者によって書かれますし、描かれるドラマも勝者に焦点が当たり
敗者はまず描かれることも少なく、目にする機会はほぼない。
中国地方の雄、毛利氏も関ヶ原の戦いで負け、中国地方一帯の130万石あったものが
石見・出雲・安芸・備後・備中国は没収され、石高にして1/4の30万石に減らされてしまいます。
とはいえ、家臣の数も石高に比例して1/4に減るわけじゃないですから、運営
残った家臣全員を食わしていく苦労は並大抵ではないと想像できます。
が、敗軍の将である毛利氏、関ヶ原廃線直後の周防長門に押し込められた時代は
ほぼ取り上げられることも、資料(本)もほぼなく、たまたま図書館で見つけて
しまったものだから、”衝動借り”かな・・・(^-^)
そんな毛利氏を理解するには、まず家系図を理解せんと始まらないです、ということで、↓

軸は、毛利輝元を中心に見えていきます。
そんな輝元、長い間嫡子ができず、穂田(毛利)元清から、秀元を養子に迎えます。
三本の矢で有名な3兄弟、長男・毛利隆元、次男・吉川元春・三男・小早川隆景は正室の子、
その正室は割と早い時代に亡くなり、継母を迎え、以降、異母兄弟がたくさんできます(笑)
余談ですが末席に「秀包」がいますが、毛利元就71歳の時の子です。
とってもお元気で。(*^^*)
元就の〇男だっけ?穂田元清から本家(本筋)が養子をもらい受けるが
後に実子・秀就が生まれて”しまった?”から話はややこしくなる。
まるで豊臣秀次に関白を継がせるも、後に実子・秀頼が生まれてしまってからの
豊臣家のゴタゴタ。
構図だけでみるとこの時の毛利氏も、養子と嫡子間で血で血を洗う争いになる可能性はゼロ
ではないんですね。
そして本来なら独立大名であったはずの”吉川広家”、減封後、毛利家中に組み込まれて
しまうからもっと複雑な人間関係になっていきます。
そんな吉川広家、幾度と独立大名に返り咲くべく、幕府に働きかけ画策した動きもありましたし、
それが叶わぬ夢だと知ると、毛利家から出奔し、懇意にしていた黒田長政に仕えるという
計画もあったそうです、実際、長政から声をかけられました、「仕えないか」と。
感心したのは、当時の各家に送られた文書(手紙)が大量に残されていること。
ほぼ捨てられることなく残っているので一級の史料として価値もあり、研究も進んでるのだなと。
ここでもう一つややこしいのは、直属の家臣というより「国人衆」の扱い。
話は逸れますが毛利氏、元は「鎌倉殿の13人」でも描かれ、御家人衆の一人・大江広元の4男が毛利姓を名乗り、子が領地の安芸吉田に移り住んだのが安芸・毛利家の始まり。
応仁の乱の時期の安芸は有力守護、周防長門・大内氏と出雲・尼子氏に挟まれ
国人衆という多数のローカル豪族が2大守護大名の間で右往左往、毛利元就は
国人衆・吉川家に次男を養子に”ねじ込み”半ば家を乗っ取り、
同様に小早川家には3男を、娘を熊谷家に嫁がせ血縁関係を結び、実子を巧みに利用した結果、
そんな国人衆から毛利氏が一歩抜きん出て、力を蓄えていきました。
で、安芸だけではなく、石見・備後の国人衆も家臣に加えてましたが
石見も備後もはく奪され、在住国人衆は領地を失うものの、どこかしらの領地を
少ないうちから工面して召し抱える、それがまた大変で。
「領地が減ったから、アンタんトコも1/4ね」で納得してくれりゃまだいいが、
与えられた領地が1/5になってしまった家もぱったりで。
それが不満なら出奔を許しを得ずに画策したり「石見の吉見氏」のような。
他家の仕官叶わず、失意のうちに仕方なく帰参を許されたりはしたものの
冷遇の末、没落。
元就時代からの古参の家臣であり親族の熊谷家であっても誅伐され断絶される家も。
ま、体のいい”口減らし”だったりするんですが、秀元と広家の不和をいい具合に
輝元が差配、時に秀元を重用、またある時は広家をうまく利用することで
”出る杭を絶妙なタイミングで打ち”、毛利本家に謀反するだけの力を削いでいったんですな。
ここで面白いのは、”実子・秀就”、やっとできた嫡子だったこともあって
かなり甘やかして育ててしまったらしく、藩主としての資質に欠き、暗愚だったことで
秀元を邪険にすることは家を危うくさせることに他ならず、広家と同様に
頼らざる得ませんでした。
著作では、関ヶ原直後から、3代将軍・家光の時代、1630年代頃までしか
書かれていませんが、代替わりして毛利家は秀就、吉川家は広嘉の代になろうとも
国人衆家臣も含め、各家のバチバチは相も変わらず、一歩間違えば公儀の耳に入り
ヘタするとお家取り潰しだって全くない話ではなかった。
三本の矢の逸話は江戸時代に入っての創作ということですが、「隆元・元春・隆景の三本の矢」
も、代変わりも進むと結束どころではなかった毛利家。
面白いのは、時に徳川や幕府の幕閣が仲裁に入り、仲を取り持つことで毛利家中が
空中分解することなく続いた結果、明治維新まで生き延び、倒幕の急先鋒になっていった
という、なんとも皮肉だなと感じ入った次第でした。m(_ _)m