約1カ月近くブランクが空きましたが全く終わっていないどころか、これからが本番?(^O^)

年末年始に書いて読ませる話じゃないなというのと、訪問者数が減っていく時期ですので控えてました。
ずいぶん前から事あるごとに「新自由主義」や「自己責任論」は嫌いと度々書いてましたが
元旦放送の『相棒』を観られたでしょうか?
後半部、事件に加担した大物代議士の詭弁に対し、杉下右京が容疑者であり新自由主義者の代議士に対し
完膚なきまでに喝破、元旦から政治ネタをドラマに入れ込むのはどうなのか?
という意見は承知してますが、おそらく作者が杉下右京の言葉を借り、
正論を駆使し論破したシーンには感動さえ覚えました。(*゚▽゚*)
新自由主義の世をヨシとする風潮に疑問を持ったのは、前に勤めていた社風と、とあるドラマの影響でして。
”若者の政治離れ・選挙離れ”と言われて久しいですが、これはちょっとニュアンスが違うと思ってて、
どう論理立ててもここには行きつかないんですよね、「政治離れ」ではなくて、
マーガレット・サッチャーのインタビュー時の言葉を借りるならば
『社会は存在しなくなった』言い換えるならば『若者の中に社会という概念が消失した』とするほうがしっくりきます。
ここからやっと本題、では著作の中から丸々引用します。
>20世紀後半から21世紀にかけてのマルクス主義理論の発展は、
包摂(注:一定の範囲の中に包み込むこと)の対象は労働過程だけではない。
労働者は一日の労働を終え、仕事場から出た後も包摂の標的となる、という事態を把握してきた。
例えば、いわゆる消費社会は欲望をあの手この手と煽り立てて、大して要りもしないものを買わせる。
人々は「モノの消費」から「意味の消費」へと駆り立てられ、永遠の欲求不満に陥れられる。
そこでは人間の欲望が資本によって全的に包摂される。
そして低成長の新自由主義時代が到来し、一層吝嗇(りんしょく・注:極度に物惜しみすること。けち)
になった資本は欲求不満を介して人々に山積みの消費財を押し付けることすら拒むようになった。
ガラクタさえ与えないとすれば、包摂は人々の消費の欲望を超えて、価値観・感性・魂に
及ばなければならなくなる。
新自由主義の「欲しがりません、勝つまでは」の時代が到来する。
自己の「人材」としての価値を高めるべく、自己啓発本を読み漁り、なけなしの可処分所得を
オンラインサロンに費やし、ついでに、
『公的扶助の不足を嘆く人をSNSで罵倒する』
選挙ではもちろん自民党か、日本維新の会に入れる。
理想的な自己責任社会を作ってくれることを期待して。
こんな人物はマンガ的であり、実際は多くないかもしれないが、経団連の公式見解が書かれた紙くずを
ありがたく拝読する賃金労働者は、いくらでも見つかる。
『資本家でもないのに資本の価値観・利害・論理を内面化した「エア資本家」が大量発生している』
← ここ重要ポイントです。(`・ω・´)
つまり「文明としての新自由主義」の核心には、人間の内的なもの、すなわち価値観・感性・魂
といったものの資本の価値との一体化、後者による前者の包摂という現象がある。
ゆえに、新自由主義の時代に「資本論」を武器として手に取るためには、包摂の概念が
呼び出されなければいけないのである。 以上。
重要ポイントとした、『資本家でもないのに資本の価値観・利害・論理を内面化した「エア資本家」』
を地で行くドラマがありまして・・・
石田衣良氏「波のうえの魔術師」が原作になった、長瀬智也主演の「ビッグマネー」の中に
原田泰造扮するエリート銀行員・山崎がまさに「エア資本家」でして、
そのセリフを文字起こしし次回、心情や滑稽さを暴露したい。m(_ _)m
