三島由紀夫「果たし得ていない約束・私の中の25年」より
>私はこれからの日本に対して希望をつなぐことができない。
このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。
日本はなくなって、その代わり無機質な、からっぱな、ニュートラルな、中間色の、
裕福な、抜け目がない或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。
それでもいいと思っている人たちと、私は口を利く気になれなくなっているのである。
>この文章を発表したのは1970年のことだが言うまでもなく、現状はこの作家の悲観主義を
も超えて悪化した。
悲観的な三島が、それでも残るであろうと想定した経済大国の地位さえも失いつつある
平成末期の日本に残っているのは、放射能で汚染された国土と、精気を失った人々の群れである。
日々入ってくるニュースは、この国の統治エリートたちのうち「日本」を存続させようという
意志を持っている者は少数派に違いないという極めて苦々しい事実を告げている。
>現代日本のさまざまな「歴史ブーム」の興隆は一見、歴史への関心の高まりを示している
ように見えて、実はそれとは逆に「歴史」の蒸発の現れであると思う。
なぜなら歴史ブームにおける歴史への奥行きという言葉のニュアンスをもう少し具体的に言うと
現時点で私たちが持っている価値観や提示されている選択肢、そういったものの成立事情や背景を
知ることで見えてくる”相対化の感覚”ということになるのでしょうか。(中略)
>百田尚樹氏の「永遠の0」(2006年)を典型例として見ていくと、同署の特徴が
証言者に過去を証言させる体裁をとりながら、その証言者のすべて現代人のものとなっている
ことを指摘しておきます。
「未知の過去をたずねる」形式をとりながら、実際にはどの証言者を切り取っても現代人たる
『著者の百田氏の分身』としか出会っていないのが「永遠の0」に奥行きがない理由です。
だから読まれたのです。
歴史の消滅に密接にかかわるものは「全能感」である。
あらゆる本質的な闘争がすでに決着済みであり、人類は歴史の終着点にしでに到達した
という意識からすれば、過去は一見、未知のようであっても現代人の感覚・価値観に
基づいて十全に表象再現可能であり、やはり同じ感覚、価値観から遠慮会釈なしに解釈
評価を下しうる対象となる。(中略) 以上、ここまで。
以上を踏まえて、櫻井翔の「元塔乗兵インタビュー」に集まった批判を考えてみます。
参考記事:櫻井翔の「元塔乗兵インタビュー」に集まった批判、その「平和ボケ」ぶりを考える・本質を見失っていないか
考える間もなく、上記を読んでいただけると答えはすでに出ていると思います。
>「アメリカ兵を殺してしまったという感覚は」の質問。
ここにすべての理由・問題点が集約されていますね。
現代に生きる者の感覚・価値観そのものだからであり、戦争前夜の昭和16年とまで詳細に限定しなくとも
昭和初期に日本が置かれた立場と状況、当時の世界から見た日本と価値観と感覚を
学んだ上での質問であったなら、このような質問が出てくるはすはないんです。
アメリカ兵を殺さなければ自分が殺られる、放置してたなら日本自体が標的にされ
同胞が殺られてしまうのです。
当時の価値観から考えると、戦争とはそういうもの。
「戦争は悪・人殺しはいけない」というのは戦後の価値観、力のある国が力のない国を侵略して
領土を好きなだけ切り取り植民地化するのが欧米列強の理屈であってね。
当然、抵抗すれば命のやり取りが行われるのは必定、それがイヤなら国力を身に着け
他国から手出ししようものならひどい目に遭うと思わせるものが軍事力(防衛力)は必須であって
国力≒経済力≒「暴力装置(防衛力)」なのであって、力がない国は強い国から好き放題に
国土を切り取られても文句も言えない。
それこそ昨今の、借金漬けにされて無理難題を吞ます中国のようなもの。
櫻井翔くん、ちょっとお勉強が足らなかったようですね・・・m(_ _)m
