
千田さん、お城の番組によく出てますし、いつもニコニコの人の良さそうな印象ですが
この本では、城跡を整備する行政・自治体に対し、かなり辛辣に、しかも名指しで批判してて
それが結構なページを割いて、印象が変わった。(-_-;)
ただね、少し同情する部分もあって、城郭考古学ってつい最近に始まった学問でしょ?
それも千田先生が脚光を浴びなければ、十年は遅れてただろうし、お城ブームもあって
町おこしとばかりに先走っちゃって、自治体の作りたいように”改ざん”した気持ちはわからないでもない。
この中で、一つ疑問が解決したのはよかったね、思わず膝を打ったくらいの。
それが『聚楽第』、秀吉の私邸のような大坂城の次に建設に取り組んだのが『聚楽第』
豊臣政権の正当性を示すため、朝廷のそばに置き、地方の従えた大名を住まわせたのだが
たった9年で跡形もなく破却、その理由が秀次の謀反(疑惑)だったのだが、それは本当だったのか?
そしてそれがせっかく作ったものを破却するほどのものだったのか?
『聚楽第』 住所:京都府京都市上京区中立売通
↑の地図見てたら行って一通り巡りたくなったね。(^-^)
私はずっと、秀次は謀反を企ててなく、弟の秀長が死去してからの豊臣姓の名乗りだしてからの秀吉の
迷走っぷり、鶴松が夭折してからの2回にわたる”朝鮮の役”など、羽柴姓時代の秀吉とは真逆の?
豊臣姓の時代は全く評価していないんだが、秀頼が生まれて秀次が邪魔になっっていったというのが
定説らしいのだが、まだ幼少で後見人として秀次には、しばらく居てもらわないと豊臣家は
いづれ取って代わられるとは考えなかったのか? という疑問。
秀吉の京での政治の中心でもあり、周辺には大名家の邸宅もあった聚楽第、京の中心部にあったので
跡地を発掘するわけにもいかない。
そこで振動波を用いたレーダー探査によって全容がほぼ判明したのだそう。
その結果が奇妙なことに、大名屋敷の周辺まで堀が巡らされ、所々途切れて未完成な場所があったと
いうのはなにを意味してたか?
それこそが秀次が謀反を企てていた証拠だとし、秀吉が朝鮮出兵の準備のために肥前名護屋城へ
長期間留守にしてたのをいいことに、聚楽第の改造、戦準備をしてたのを誰かが秀吉にチクリ
秀吉の知るところになり、一族郎党処刑されたとともに、処刑理由は曖昧にしたまま、
謀反の企ては一部の近親者しか知らない早い時期に、戦準備改造中の聚楽第を跡形なく破壊することで
秀次の企てを世に知らされないよう隠滅したという説。
秀次がいなくなれば秀吉の年齢を考えても空白の(取って代わられるかもしれない)時間が
生まれてしまうことも覚悟の上で処刑。
それくらいに裏切った秀次には怒り心頭だったという。
あとはご存知の通り、大阪の陣を経て豊臣家は滅亡したということを考えると
秀次が欲をかいた時点で豊臣家の行く末は決まった、ということみたいです。
秀長があと十年生きてたら、豊臣家が滅亡しないまでも延命できてたかもと考えつつ
秀長亡き後、継いだ秀次は歴史で語られるよりもっとデキる人だったと思ってたのに
実はポンコツだったと知ってガッカリ・・・/(-_-)\
