細谷四方洋 著 『トヨタ2000GTを愛した男たち』 | 国道179号沿線住民とっ散らかりブログ

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楽器もできない音楽好きのおっさんが
中坊並みの文章力で書いてるブログ。
撮影地:若桜鉄道、八頭高校前~因幡船岡駅間


なんでも連載の再編集らしくて書き下ろしじゃないらしい。
そういわれても、この人の名前を聞くのも初めてで、何をした人か
経歴も全く知りません。
なぜなら、トヨタ2000GTというクルマに、さほど思い入れもないから。
2000GTだけが名車ではありませんので・・・

だけど、出だしからして文章が秀逸でして、あっという間に引き込まれ
ました。というのも書き出しが

父は被爆して死にました。
広島で警察官をしていて、就業前の準備体操を署の屋上で行っていた朝
突然、強い光線と熱風に襲われたものの、たまたま壁の真ん前だったので
直撃は免れたが、周りにいた同僚はことごとく殺られたんだとか。
爆心地から直線距離にして800m、そんな父が満身創痍で実家
(著者が住んでた)尾道まで’歩いて’帰ってきたそうです。
傷が癒えたのも束の間、広島から呼び戻され帰っていくも一ヶ月後
急逝されたと。死因は急性白血病でした。

尾道に残された母と子、生活も大変だったのだが、そんな頃
広島市内はまだ放射能汚染が酷いというので、手前の尾道に進駐軍が
駐留することになった。
「ギブ・ミー・チョコレート」とかやってるうちに仲良くなった米兵に
手ほどきを受け、ジープを運転させてもらったのが13歳の時の
エピソードとして面白かったですね。

バイクの配送の手伝いをしているうちに運転がうまくなり
レースにも出るように、そこで頼まれて?トヨタ車でレースに出て
上位入賞したことで関係者の目に止まり、トヨタのテストドライバー兼
レーシングドライバーとして契約、そんなこんなで2000GTの開発に
関わるようになったって。

知らなかったのは、2000GTはトヨタ単独では荷が重かった。
出来るかどうかもわからんスポーツカーに掛かりっきりになるほど
ヒマじゃない、人も時間も割くわけには行かなかったところに
ニッサンに共同開発を断られたヤマハが、仕事を探しにトヨタ本社に
やってきたところをすかさず捕まえて、共同開発を持ちかけたって。
試作・開発は浜松のヤマハで行ってたてまえ、まだ試作車も
出来てない頃、彼は開発責任者を乗せては毎日のように
トヨタとヤマハの間を往復してたって。

その後はなんだか自慢というか、武勇伝みたいな書き方なんで
チョットね・・・というのはあったんだけど、(-_-;) 

これまた知らなかったことが、2000GTのレプリカモデルが
『ロッキーオート』
ってショップで作ってて、その監修に細谷氏が関わった。
トヨタにその許可は取っていない、というか著者曰く
「許可は必要ないというか、トヨタに口出しする資格はない」と
言い切った。その理屈が面白くてね。

2000GTはとにかく部品がない。ないから作るしかない。
そのことを本社の上層部に談判に行ったところ
「たかが300台ほどしか存在してないクルマにわざわざ部品を
 供給するような手間はかけられない」と門前払い。
だったら、その手作りした部品を数百個集めて組んだら
一台の車ができちゃった、それがたまたま20000GTにソックリだった。
その理屈だと、トヨタもイチャモンをつけられないはず。

だってさ・・・m(_ _)m