いろんな思惑、本心だったり
自分のやりたいことはこれなんだ
といったことが現実に反映されないこと
大人になると、何度も何度も
その壁にぶつかります。
失望したり、誰かのせいにしたり
自分を蔑んだり
でもいつか気付くしかないんです
今を生きるしかない、と。
今のここまできた自分というものと
授かったこの身体と
受け取った過去の出来事と
まさに自分が置かれた状況を
何とも思わず、承知すること。
いろんなところで、いろいろな人が
同じことを言っている気がします。
少し前に流行った、マインドフルネスや
「置かれた場所で咲きなさい」の著者の
渡辺和子さんもそうです。
今、いまの連続なんです。
子育てをしていくうちに
何が優先されるべきかということを
否応なしに考えさせられることがあります。
何しろ、生まれたばかりの赤ちゃんは
私がお世話をしないと
右も左も分からないし
下手をすると自分の命が脅かされることさえ
知らずに、好奇心のおもむくまま
あれこれと、きっと生まれてきたこの世界を
嬉々として探検している気分なのでしょうが
それを私たち大人の常識で
それは間違っている、とばかりに
無垢な彼らに頭から叱りつけたり
全部が全部、良かれと思ったことだとしても
赤ちゃんだって悪いことだなんて思ってもないことなんですから
こちらが感情的になったところで
なんになるんでしょうか。
私なりに、赤ちゃんの心境を考えてみたんです。
特に息子はその表情が分かりやすくて
彼の身になって考えやすかったんですが
好奇心と不安で入り混じっているのではないか、と。
考えてもみてください。
お母さんのお腹のなかにいた頃は
全く包まれていた状態です。
何か聴こえてくるといったも
夢うつつの中で、自分を変容させることに
集中することができた
正に安住の場所だったわけです。
でもある時、その瞬間がやってきます。
ヒトは生理的早産といって
動物とは違う未熟な状態で誕生します。
動物は外敵から身を守るために
生まれたばかりでもう立ち上がって走ることができますが
ヒトはすぐに立ち上がるといったことが
できません。
その理由は分かりませんが、
もしかしたら知性を持ったことで
そうすることが必然になったのかもしれません。
動物と違って生まれた時代や場所で
全く環境が異なるわけですから
完成された状態で生まれてしまったら
適応力が養われない、と考えられるかもしれません。
そこで未熟な状態で生まれてくる
そこから親などの環境によって
自身の身体を、そしてやがては自我を、
意志を少しずつ育んでいくようなイメージ
でしょうか。
息子を、産んだ時には
ちょうどインターネットで
いろいろな情報を得ることができ
逆にいうと様々な情報に翻弄されるとも
いえる状況なんですが
大切なことは本当はシンプルで
その数は多くはないことに気付いてみると
失敗はなくなりはしないけれど
自分に失望する暇などない、
それ以上に素晴らしい世界が目の前に
広がっていることに気がつくことができるわけです。
ヒトの誕生というのは、
人間という、自分も含めて
なんて不思議な生きものなんだと
全てを自分に預けるように
あどけない我が子を胸に抱きながら
外よりも果てしない内面の世界に
想いを馳せたものでした。
そしてこの誕生したばかりの
小さい人に関わるときには
皆さんも同じことだと思いますが
命に関わるようなことでない限り
他はどうでも良いと考えたというか、
気付いたのです。
もう無菌やら殺菌やら
ベビー用品は今はまた更に
誰かがいろいろ考えて作り出した
いろんなモノが出回っていますが
正直、誰かの思惑で手が入ったものほど
小さい人の自我、それは感覚を育むことから
始まるといっても過言ではないと思うのですが
その成長の妨げになっていないか、と
今にして思うのです。
アメリカインディアンの言葉があります。
誰かに聞いてものを教わるのは
自分は愚かだといっているようなものだ。
どうすればいいのかは
周りをよく見て自分で学びとるものだ
全く同じ言葉を思い出せませんが
そういったことだったと思います。
そのためには、感覚を正しく育む必要があると思うのです。
本物の感触、触覚というのは
一番といってもいいくらい
生きる上で大切な感覚といいますが
自分の本質に即した意志を育むには
その前に自身だけの感覚を知覚して
体験する必要があるのです、
その際に、誰かの思惑、思考が働いてる
例えば、おもちゃなどの身の回りのものが
それで囲まれていたとしたら
赤ちゃんは、そのモノに宿っている複雑な思惑を理解しなければいけないわけです。
適応力は抜群に発達している状態なので
無意識にそれに準じて遊ぶようになると思いますが
前述したことを考えると
私は残念で仕方がありません。
もっと言うと、私たちは何かモノを
作り出す時、体験したものからしか
作ることはできません。
無意識のうちに見たもの、聞いたものが
反映しているのです。
モノなどは元を辿れば自然の造形物から
真似て作ったようなものです。
そのことを承知できるのは
概念を擁した大人になった人間だけです。
ですから
まだ感覚が未発達な幼い子ども達には
是非、本物の自然の感触を体験させてあげたいものです。
ただそうはいっても、なんです。
かなしいかな、ご存知のとおり
自然破壊と言ってもいいくらい
私たちの住まいの周りには
申し訳程度の公園くらいしか
自然に触れる機会が少なくなってしまいました。
気象もなんだか人工物によって
歪んできて、逆に今度は彼らの方の
破壊活動が始まっているかのようです。
こういったことで
いろんなことを考えると
本当にキリがありませんが
私たちは最善を尽くすだけなんですよね。
修学旅行の朝は、また例によって
バタバタと慌ただしく始まりました。
忘れものを学校に取りに行ったり笑
のんびりテレビを観ている息子を
責めるつもりはありませんが
楽しい旅行にしたかったので
(これが優先事項なわけです)
細かいところで
息子に躾をしようとか
社会勉強させようとか
そんなことよりも
何かもっと大事なことを伝えたい
言葉ではなく体験を通して感じて欲しいから
この際、細々とした雑務のようなことは
一手に引き受けるつもりで
まぁスタートからてんやわんやで
私はちっともゆっくりできなかったわけですが
支度を整え、家を出発しました。
なんとか予約していた特急電車に
乗り込んで、席につき
荷物をおろしてホッとしたところで
私の携帯に学校から電話がかかってきました。
何事だろう、と出ると
留守番している教頭先生からで
「どうされていますか?
電車には間に合いました?」と
どうやら私が書いて渡しておいた
予定表の時間をみて電話をかけてくださった
んです。
ありがとうございます。
ちょうどいま発車したところです。
行く前から電車の話で盛り上がっていた
息子にも電話を代わって
息子も驚きながらも
電車の中の様子をいろいろレポートして
話していました。
なんだか嬉しくなりました。
別行動ではあるけれど一緒だね
と言ってくれた女の子の言葉では
ないけれど、
本当にこうやって電話を通して繋がってる
私は心から実感したのでした。
長くなってしまいました。
また続きます。
今日も読んでくださり
ありがとうございます。
いい一日をお過ごしください。