私は保育の勉強をしているのですが、
児童心理学の授業の中で
子ども達にとって、遊びとはなんだろうか
と考える時間がありました。
大人にとって、遊びというと
楽しい、娯楽、ストレス解消
そんなワードが浮かんできます。
でも感覚ひいては身体がまだ
成長段階である子ども達にとって遊びとは
生きる力を培う学び
本気だし、ひとつひとつが挑戦であり
そして夢中になるものなんです。
夢中になる、といった点では
大人でも同じことが言えますが
全く何もかもが初めての体験、
皆さんも想像できますよね
子ども達の場合は、大人のそれとは
遊びの性質が全く違うんです。
世界との出会いとでもいいましょうか。
遊びはただ楽しいとかいった
娯楽だけではないんです。
子ども達はその意識はないのですが
心の栄養であり、
感覚が溢れて生まれ出る泉のようであり
後には自我や意志、思考が育つ
花開く前の種のようなものなんですね。
遊びとは夢中になるもの
我を忘れて、その動作の中に没入して
理性ではなく感覚的な動作の変容を
遊びの中で繰り広げられているとき
そこで
大人が何か差し向けようとしたり
そのような作為を孕んだ言葉を掛けてしまったら
たちまちその子どもの感覚は止まってしまいます。
誰かに依存することでしか
自分の感覚や意志を顕せない
そういった事柄なんです。
そのことに関連して
言葉掛けの本などもありますが
子ども達に関わるというのは
本当に難しいことでもあるんです。
ただ私個人的に気を付けていることは
これは子どもに対してだけでは
ありませんが、
頭の中に浮かんだ言葉を
すぐに外に向かってだしてしまうのではなくて
少しだけ、待ってみる。
本当に言いたい言葉なんだろうか。
そう問い直してみるんです。
それから自分の中でゆっくりと浮かんで
くる言葉を掬いあげる。
現実的には、日常の中で
そんな悠長な時間はもてませんが
そういった意識があるだけでも違うと思うのです。そして、思考の速さと同じように
そのうちにある程度はすっと言葉を選択できるようになってくるのではないか、ある程度はですが。なんかそう思うのです。
言葉に対して、コミュニケーションに対して
苦手だといったことも
その言葉や会話ができるようになるには
と先のことをら考えるのではなくて
まずはやっぱり自分の中の感覚だったり、
本当に自分が夢中になることを
見つけることが先だったりするのではないかとわたしは思うのです。
それに、言葉の力というのものは
時に恐ろしさもありますが
やはり言霊ということになるのでしょうか
使えば使うほど、自分のものになっていくような気がするんです。
自分のものというか、同化するというのか。
ですから最初はうまくいかなくても
言葉にしてみてください。
もし、聞いてくれる誰かがいたのなら
うまく話そうとか考えずに
ゆっくりとでいいですから、自分の胸の内で
起こったこと、思いを打ち明けてみてください。
これは息子にも起こったことですが、
本当によく話すようになりました。
是非、嘘だと思って試しにでもいいですから
言葉にすること、できることなら
相手がいて話すこと
私のようにブログにするのもいいです。
なんでもいいんです。
言葉で沢山表せるようになったら
しめたもの。
自分の感覚が掴めた片鱗がみえてくるはずです。
そこから先はあなたの自由な世界が広がってくるはずです。
無理せず、あなたのやり方で構いません。
少しずつやっていきましょう。
本題の方に進んでいきたいと思います。
話は変わりますが、
息子は小学校に通っているので
その中の事で感じることを
申し上げるに留まるのですが
今の学校教育の中で、
子どもが本当に夢中になって
我を忘れるくらいに真剣に物事に
取り組めるような環境を整えようとしている
とは正直に言って些末な事と
扱われているような気がしています。
成果主義、物理主義な社会に
教育の現場も侵食されているような
保護者の立場として、外側からだけですが
なんとも不安な気持ちにさせられています。
そんな思いを抱えながら
校内音楽会に参加したのです。
息子は随分と成長しまして
意欲的に、家庭科や工作の授業に
参加をするようになりました。
そして年に一度、秋の土曜日登校の日にある
校内音楽会に自分も出たいと言い出したんです。
これは、音楽の先生が不登校になる前から
息子に関わってくれていたことが
とても大きいと思います。
不登校になって、少しずつ登校時間を伸ばし
会議室で授業を受けるようになってからも
最初は教頭先生と音楽の先生
お二人とも日頃から息子を気にかけてくれ
意識して関わりを持ってくださっていた先生です。
その二人の先生以外とは
会いたくないといった状態だったんですが
会議室でほんと、息子の話を聞くということから雑談へ発展していき
そのうちに教頭先生は理科や地理、歴史の話を
音楽の先生とは一緒にリコーダーを
最初は息子のやりたいギターをどこかから持ってきてくれたり、
ドラムが叩きたいといった話になれば
都合をつけて音楽室に連れていってくれたりして、といった経緯を経てですが
ちょうど校内音楽会で演奏する曲があるから
練習してみない?と声を掛けてくださって
ギターやドラムの延長で
息子にとってはごく自然にリコーダーを始めたわけです。
ちょうど好きなアニメの主題歌だったこともあって、
夏休み中も何度か吹いているところを見かけていました。
そうやって2学期を迎え、本格的に学校全体で練習が始まった時に
やってみようかな、
なんか我が子ながら素直な反応を
また、真面目な彼らしさもあるんですが
惜しげもなくみせてくれるなぁと
嬉しくみていたんですが、
まずクラスの皆と久しぶりに一緒に
音楽の授業を受け、
その次は学年全体の合同練習にも
(私たち大人の後押しも少しありましたが)
参加するようになりました。
ここまでやってきたんだから
がんばってみよう。
躊躇している時には、
忘れそうになった時には、
そういって励ましました。
みんなが文字通り、暖かく見守ってくれていました。
迎えた校内音楽会ですが、
私も朝から受付に並んで
久しぶりにアリーナ席をとり
最初から最後まで参加しました。
最近、共同体という言葉が浮かんでくるのですが
その時も、子ども達を中心に
その時の私たちだけだから
作れた空間にいたような気がしました。
集中している時というのは
音も視界も曖昧になってくるのですが
本当にその時もそんな感じで
音楽を聴いているのに音が耳からではなく
身体全体で感じているような感覚とでもいいましょうか、
そして何より凄かったのは
子ども達の身体全体、意思と心と感覚が
身体と一体になっている様、
音とリズムと歌の世界観に
無防備な自分を放り込んで
夢中にそれこそなっている様子は
なんていったらいいんでしょう
みている私達をも引き込むエネルギーが
素晴らしいくて
自然と涙が出て、それを拭う人や
私も最初からそれはもう止まらなかったんですが
私はあともう一つ、心躍るような
光景に惹きつけられていました。
何故こんなにも子ども達が夢中になれたのか
それは他ならない先生方の努力も大いにあったのです。
私の息子も同様ですから。
誰が言わなくても
ふざけて騒いだり、他のクラスの演奏を
聴かず、退屈そうにお友達との話が止まらないといった子どもは殆どいなかったと思います。
本当にとても静かな、厳かなといっても
いいくらい子ども達によって真剣に執り行われていました。
音楽の先生とは、お話をする機会が何度かあったので彼女がどんなに熱心であるとか
音楽と、子どもに向き合っているかということは承知していました。
人の想い、熱量というのは
強ければ強いほど周りに伝わりやすいものです。
それが利己的なものではなく
ちょっとまだ気恥ずかしいですが、
愛から始まったものであったなら
その熱量のエネルギーが更に揺るがなく
周りを包み込むように広がっていくでしょう。
人間は基本的に自分中心です。
愛というのは、一方的になるような
危険を孕んではいますが
正しくそれが扱われる時、
世界を動かすくらい大きな力になる得るのです。
本当はそうしたいのに、
できないというのが人間ですが
もしその恩恵を受ける機会に恵まれたとき
新しい目が開かれるのです。
こんな風に大袈裟に捉えている人は
もしかしたらあまりいなかったかもしれませんが、
そういった気持ちで観ていると
あぁこれもあなたも素晴らしい、
と感動どころが満載なんです、世の中って。
1年生から6年生まで
自分の子どもの演奏でなくても
それを指揮する先生方、
観に来てくださったかつての先生方
地域の方々、そして同志のような
私たち保護者
全ての人によって暖かく、
どこまでも暖かい音楽会になりました。
帰ってきた息子は、
そうは見えないかもしれないけど
すごく頑張ったんだ。と話してくれました。
そんなこと、大丈夫だよ
言わなくても知ってるよ
本当にありがとう、おつかれさまだよ。
全部を言葉には伝えられなかったけれど
にっこり笑って、返したのでした。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。
いい一日を。