茨城県にある古墳で,私の一番のお気に入り古墳は,ひたちなか市の虎塚古墳。
それは多くの珍しい特徴と謎がある,とてもミステリアスでワクワクする古墳だから。
そして発掘者の大塚初重先生が,発掘に至るまでに偶然に偶然が重なった面白い経緯を紹介しているから。
そんな虎塚古墳に関する展示が行われるらしい
茨城県考古学協会の公式ブログ1/5の記事より
http://blog.livedoor.jp/takepon1017/
「第15回企画展「虎塚古墳の時代」
平成30年2月10日(土)~平成30年5月6日(日)
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター
「虎塚古墳がつくられた7世紀について,市内や近隣の古墳出土の遺物を展示して,わかりやすく紹介します。」だそうだ。
結構期間が長いし行ってみたい。
これまで虎塚古墳関連で読んだものは割と古いものばかりだったから,最近のなにかあたらしいはなしがないか楽しみ。
さて,そんな虎塚古墳の特徴と謎をめも。自分が読んだ本や報告書,jstageから拾ってきた論文をまとめためもなので文中は「らしい,だそうだ,ということだ」ばかりになるけどもご容赦を…あくまでも自分の趣味で遊びでめもしためもなので…
虎塚古墳基本情報
全長52m×幅(前方部280.5m,後円部28m)
高さ 前方5m,後円5.5m ともにほぼ同じ高さ=典型的後期古墳=横穴式石室のパターン(らしい)
壁画
まずは何といっても,壁画。白色粘土で下塗りされた上にベンガラ(酸化鉄)で彩色された不思議な幾何学模様の壁画だ。
「古墳壁画の顔料について (鶴田栄一)」で常陸の国風土記の久慈のところにある「北の山に有る所の白土は、画に塗るに可し」と,絵に使う白い顔料の土が久慈で取れたとの記述について言及されている。
また同じ久慈で「青土」について「有る所の土の色は、青き紺の如く、画に用いるに麗し」。やはり絵に使う青い顔料が取れたという記載についても指摘している。
虎塚古墳の白色粘土もここのものなのか?青土は使われていないんだなぁ。時々朝廷に献上したらしいから高級で地方では使えなかったのかな?
絵自体についても丸や三角,抽象的な絵で素人目では何が描かれているのかわかりにくい。九州の古墳の壁画との類似が指摘されているが,チブサン古墳や王塚古墳などは6世紀とだいぶ古い。虎塚古墳は7世紀とだいぶ後になって茨城でこれだけの壁画がかかれたのはなぜなのか。
茨城に九州の人々が「大規模に」移り住んだという「伝説」もある。これについてはもちろんある程度は九州とつながりのある人が暮らしたことは間違いないだろうが「大規模」な移住があったかというと,方々で問題が指摘されまくっている(多氏一族の伝説とかね)。これについてもいつか何かメモをまとめたいと思っているが今は古墳だ。古墳。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180205/20/sima10ra/46/bc/j/o4032302414125943318.jpg?caw=800)
この鮮やかな朱!不思議な文様!あぁわくわくする…!!!
これは虎塚古墳併設の「埋蔵文化センター」内のレプリカです。写真オッケーとのこと。
本来ふたをされて見えないはずの入口の上下左右にも三角文。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180205/20/sima10ra/51/ba/j/o2807324114125943230.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180205/20/sima10ra/d5/10/j/o3004295614125943289.jpg?caw=800)
いい…いいねぇ…さいこうだ…
天井と床にも彩色されてます。
壁画の内容の解釈
描かれる内容がわかるとより面白く,当時の人々のことが少しわかったような気がして楽しいとおもうので,いろいろな本や報告書で挙げられていた壁画の解釈をメモする。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180205/20/sima10ra/2d/98/j/o4032302414125940462.jpg?caw=800)
資料はこれです。ひたちなか埋蔵文化センターでもらえる「つくってみよう虎塚古墳」
色を塗って組み立てると石室の様子が再現できる!すごい!たのしい!
奥壁
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180205/20/sima10ra/a0/70/j/o3024302414125945315.jpg?caw=800)
アルファベット振ってみました。わかりにくくてスミマセン
A 直径34センチの二重円
B 直径32センチ二重円
共にコンパスでかかれたもの。中心にコンパス跡がある。
塗り方の丁寧さに差がありAとBは別の人が書いたものかもしれない。
鏡説,太陽と月説等が挙げられている。
また,蛇の目説もあり,壁の上下の連続三角紋は鱗文様と解釈するようだ。
C コンパスで書かれた円。彩色はない。
D 槍,鉾,太刀?
まっすぐに建てられ,上から下へ細くなっている。15本。
E 靫(矢を入れる入れ物):10本の矢が入っている。
F 隣り合う二つで一組か。何を表すかははっきりしないらしい。
・冑(兜と鎧セット)説。
・鞆(弓矢をいるときの左手の防具)説…なぜ二つを上下逆で描いたのかという疑問があるんだって。
G 大刀 3本
・Dの槍矛に比べて明らかに斜めに立てかけられた様子を表している。鬼門(北東)の魔除けかといわれている。しかしこの頃から鬼門の考え方があったのか,という問題があるらしい。
→実際に他の古墳で同様に石棺や壁に本物の大刀が立てかけられた状態で発見されているケースがある。(群馬県綿貫観音山古墳,茨城県風返稲荷塚古墳,ほか)
・三本はそれぞれ柄頭の様子から円頭大刀,鹿角大刀,頭椎(かぶつち)大刀,といわれ,,いずれも儀仗用の大刀であるので魔除けには似つかわしい。らしい。
H 砂時計のような三角が上下に組み合わされた図文
上の三角と下の三角は一筆書きではなく,それぞれ分けて書かれたものらしい。
何であるか書かれたものは見つけられていない。
西壁
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180205/20/sima10ra/73/b7/j/o3788205514125940594.jpg?caw=800)
アルファベット見にくい!もっと大きく書けばよかった!
I 上部の連続三角文。
二つの石にまたがって書かれているように見えるが,奥壁に近い大きい方の石方が,小さい伊師よりも丁寧に描かれている。別の人間によって描かれたらしい。
J 円 9個
14.5センチ~15センチ。コンパスで描かれる。
・鏡説
除魔の意味か。多くの鏡を副葬する文化は4~5世紀のものだそうで,実物の鏡から壁画に変えたとはいえこの地域では7世紀までその伝統を保持したということなのだろうか?という疑問があるらしい。
・太陽説 複数個の太陽が同時に出現する伝承を思い出すが…?
・星説 奥壁の大きな二重円ABの「太陽と月」説と併せて,太陽と月と星宿と想定する考えもあるらしい。次のK船説と併せて航海の天測の様子説もあるとか
K 壁中央に浮かぶU字型
・船説
海からも近いので,似つかわしいかもしれないと感じる。また,すぐちかくの十五郎穴横穴墓からは大和政権とのつながりの証拠かといわれる蕨手刀が見つかっており,この地域が東北への海路の中継地点として重視され,その管理をした責任者のものではないか,といわれているので,やっぱり海,船と結びつけたくなる。
また,死後の世界への船での旅立ちの表現との解釈もある。
熊本県永安寺東古墳の壁画の船の描写との類似が指摘される。同古墳の石室には東西の壁面に横に並んだ12個の円が描かれ,その点でも虎塚古墳との類似が指摘もあった。
・三日月説 Hの9個の円「太陽説」と併せる。
・弓説 他の古墳でも壁面に弓を描く壁画の例があるが,虎塚古墳のものは特に抽象的で判断できないとのこと。
L 長靴みたいなやつ。2つで一つらしい
・鐙説が有力のようだ。
M 凹字形図文×2
・鞍と障泥(どろよけ)説
・火打石を入れる袋説
特に茨城県南部は馬の産地として昔から有名であること,虎塚古墳のすぐ近くの馬渡埴輪製作所では馬型埴輪が見つかっており,また県内でも船塚山古墳の金の冠に馬型の飾りがある他,馬具の副葬品が非常に多いことからも,馬具の壁画があるのは似つかわしいんじゃないかな。
東壁
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180205/20/sima10ra/82/9e/j/o3824198814125941679.jpg?caw=800)
N 天井付近の連続三角文から縦に線が伸びた先に円が描かれる。
天井からつるした鏡説
O 双頭渦巻き文
・Mのすぐ下に描かれる。鬼門のおまじない説
平城宮跡出土「隼人の盾」の渦巻き文との類似性の指摘もある。
P 棚の上の靫×2 矢が13本ずつ入っている。
靫の真ん中でくびれて下に向けて広がるスタイルが福岡県の古墳の壁画と類似しているらしい。
・高坏など儀式用の土器説もある。
Q 棚の上の三つの何か
・上に乗って踊る桶説
・何かの器を伏せて置いている説
古代の葬送儀礼に空の桶を矛で突く行事があるらしい。そのための桶なのかな?
・盾説
鍋田27号横穴(熊本)や太田古墳(佐賀)日の丘古墳(福岡)の明らかに盾と思われる壁画と類似があるらしい。自分でも画像検索してみたが…類似といえるほどかは分からない。でも靫や船の表現は似ている気がした。
R 棚の下から出た何か
・皆目見当がついておりません。どの本にも「こうかな?」くらいの憶測も載っていません。なんなら触れられていない場合もあります。
個人的には,棚の重みを支えるための木とか留め具かなとおもった。
S 井桁状図文
・織物の枠説
・家屋説 なんでこの位置に家が描かれるんだろうね。という疑問はあるらしい。そしてこの形で家屋が描かれる前例がないとか。
・盾説
T 有刺棒状文
・祭祀の道具説
U 楕円形のものに玉状のものが配してある。
・ネックレス?上部には紐を結んだような表現も見られる。しかし首飾りの壁画は類例がないらしい。
V 武器か,靫か?
上部は櫛歯状の表現になっている。
W 西壁のLと同じものか。鐙
X 西壁Mと同じか。鞍と障泥か。
さて,さて。長かった。
全体を見ると,円文,三角文,武器武具…と九州,特に熊本のかなり古い時代の彩色古墳壁画との類似が指摘されている。
一方で墳丘の形態や内部の構造,副葬品に関しては常陸地方の伝統的スタイルと言え,そのギャップがまた謎。
ところで壁画全体を見渡した時に,東西の壁の入口付近に固まって描かれている,西壁(LM)と東壁(STUVWX)の入口付近の絵について何か他の絵と違う雰囲気を感じないだろうか。
他の部分の壁画が幾何学文と武器武具が描かれているのに対して,このエリアは馬具や呪術的な道具か何か…と,内容の違いが指摘されている。確かに言われてみれば,描き方も小さいし,他の部分程しっかりとした筆致ではないようにおもう。
ここの部分の壁画は後からかきたされたものではないかといわれている。
「あとから描き足す」というのは,どういうことか。
実は,虎塚古墳では埋葬は二度あったといわれている。
石室入口に捨てられた「前の副葬品」
墳丘にあいた石室入口の東西に拳大の河原礫の層が見つかっている。この石は虎塚古墳内の他の場所に使われた様子はない。
その中に鉄鏃,鉄釧(腕輪),鉾,鉄釘,環状金具などが発見されている。
鉄鏃…40点以上。石室内で発見されたものに似ている。
環状金具,鉄釘…何か(木棺?)の装飾パーツか
鉄製鉾先…17.6センチ。当初から柄ははずされて埋められていたらしい
(後期古墳の特徴的副葬品。らしい。)
どういうことか分かりにくいとおもうが
①7世紀初めに古墳が作られる。壁画がえがかれ,おそらく木棺で一度目の埋葬が行われる。
②7世紀中頃に最初に埋葬した副葬品など石室内のものを土と一緒に墳丘の外へ掻き出して石室への入口脇に左右へ捨てる。
それから壁画を描き足し,新たな副葬品と共に石室内に被葬者をを横たえ,二度目の埋葬をした。ということらしい。
二度あった埋葬
ここが私が惹かれる第二の謎ポイント。
一つの古墳を代々つかっていく追葬ではなく,中のものを掻き出してしまって再度埋葬しているところに謎を感じる。こういうことはあまり類例がないらしい。
しかも二回の埋葬はそれほど時期が空いていない。
いったいなぜなんだろう。
時期が空いていれば,もう誰が入っているかわからない古墳だから中を片付けて再利用する,ということもあるのかもしれない。
最初の被葬者と二度目の被葬者は親子や兄弟など近親者ではないかとの話もある。
しかし,たった数十年。これだけ立派な壁画を残すほどの近親者に敬意も払わず無残にお墓から追い出し,副葬品も別のところに改めて納めるでもなく入口に討ち捨ててしまうということがあるのだろうか。
力があった人物の墓を破壊してそこに自分が収まることで権力ののっとり,上書きができる効果はあるかもしれない。少し事例は違うが,県内の鹿嶋にある宮中野大塚古墳では古墳の石室の石を引っ張り出して破壊し,わざわざそれをまた中に戻す,ということが行われている。畿内政権が在地色の強い古墳文化を破壊し,体制が変化したことを象徴的に示すための儀礼的行為であったのではないかと考えられたりしている。
しかし,二回目の被葬者の副葬品を見ると,決して豪華ではない,どころか壁画の立派さに比べると盗掘がなかったのに正直貧相に見える。
2度目の副葬品
(ひたちなか埋蔵文化センター展示/写真撮影きいたらOKしてもらえました!)
・小太刀1口
・刀子(ナイフ)1本
・鉄鏃
・やりがんな
・毛抜き型鉄器(刀をつるすためのベルトの金具?)
・透しのある鉄板(用途不明)
以上。以上!!正直,前の被葬者の権力を上書きするほどの実力者に思えない貧相さ!武力もお金も持っていなさそう!!
あるいはこの質素な副葬品がその人たちの風習だったのか,そういう時代だったのかもしれない。
しかし近隣にある虎塚古墳より古い笠谷古墳群からは金銅製馬具がでたり,逆に時代の新しい十五郎穴横穴墓群からは金銅装の大刀,正倉院所蔵品に類似した蕨手刀ほかけっこう豪華な副葬品が,すぐちかくの指渋横穴でも勾玉が出ていることが指摘されている。
やっぱりここだけが特別に貧相なのではないか…?壁画の入り口付近に申し訳程度に描き足した稚拙で自信なさげな小さな絵がまた貧相さに拍車をかける…
笠谷古墳群の副葬品(ひたちなか埋蔵文化センターの展示)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180207/10/sima10ra/b9/14/j/o0562096014126871750.jpg?caw=800)
うーん。何があったんだろうね…
さて,話題を変えて。次に。
虎塚古墳の発掘に関して,偶然に次ぐ偶然が起こしたエピソードを大塚初重先生がご自身の著書で語っている。とても面白い話なのでめもめも。
まず前段として,虎塚古墳のすぐ近くにある馬渡埴輪製作所遺跡の発見があった。
1 馬渡埴輪製作所遺跡の発見
a)埴輪制作の窯跡を発見
茨城県日立市出身の明治大学の学生が帰省ついでに勝田市(現ひたちなか市)の公民館で考古学資料を見学。完形の馬型埴輪を見つける。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180204/12/sima10ra/12/62/j/o4032302414124970970.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180204/12/sima10ra/d1/94/j/o4032302414124970964.jpg?caw=800)
ひたちなか市埋蔵文化センターにある馬埴輪。このどちらかなのかな。
馬埴輪可愛くて大好き。
その埴輪が「古墳でもない谷からの出土」であったことを不思議に思い,大学で師事していた大塚先生に報告し,市へ調査を申し入れることとなった。調査の結果,炭,埴輪片,赤く焼けた土が見つかり埴輪用の窯跡と断定して発掘をすることになる。
b)埴輪工房,工人住居跡発見
発掘中に近隣住民からアイスの差し入れをもらい,食べた後のごみを埋めようとその辺に穴を掘った。そういう時代だったんだね…
すると何かの遺構らしきものがでてくる。調査すると埴輪の粘土採掘坑,形成工房,職人の住居跡がみつかる。一帯が大規模な埴輪制作の複合施設とわかった。
大学生の帰省中のきまぐれな寄り道と,アイスの棒によって県内でも重要な遺跡が発見されたのだった…ひたちなか市は昔からものづくりの町だったんだねぇ…(今も日立製作所や製紙工場はじめ工場がたくさんある)
2虎塚古墳の発掘依頼を受ける
埴輪製作所の調査中に見学に来ていた地元住民が大塚先生に「うちの山にある古墳も掘ってほしい」と声をかけられる。これが虎塚古墳なわけだが,費用面等から難しいと断る。
しかし数年後,この埴輪製作所調査が縁となり勝田市から市史編纂を依頼された大塚先生は「そうだ,あの時たのまれた古墳を掘ってみよう」と思いだし,市に提案,調査することとなる。そしてあの,ベンガラで描かれた幾何学模様の彩色壁画を発見するのだ。
つまり埴輪製作所の調査がなければ,壁画も発見されなかった。大学生とアイスの棒が壁画につながるわけである。世の中本当に何がきっかけになるかわからない…
3 高松塚古墳の壁画保存へ協力
虎塚古墳の調査が始まり,隙間から壁画があることを確認し,いよいよ石室をあける!という直前に,大塚先生は金沢への出張に出かける。その帰りに福井で行われていた発掘現場へ寄り道をする。自分の教え子が参加していたので様子を見に行くためだった。
手土産にしたビールで宴会となった席で東京文化財研究所の保存科学部,新井英夫先生とたまたま同席になる。新井先生は当時高松塚古墳の保存に携わっていたが,「本来閉鎖されていた空間にある壁画」の保存に適した温度湿度・空気の成分・微生物等について元となるデータがまったくないと頭を悩ませこう言うのであった「どこかに未開口の横穴式石室はないでしょうか…」そして大塚先生はこう答えるのであった。「わたしこれから茨城の古墳掘りますけど…」もちろん虎塚古墳のことだ。
そんなわけで虎塚古墳の石室を開ける前には新井先生にも来てもらい,いろいろな計測をしてデータをとり,高松塚古墳の壁画の保存にも役に立てられた…はずなのだが,ご存知のように現在高松塚古墳の壁画は劣化がとまらず,結局壁画部分を取り外し,施設にうつされて保存されている。茨城人としてちょっとくやしい。しかしこのデータは虎塚古墳の壁画保存にも役に立っているし,なにより市や発掘に携わる人々に虎塚古墳の壁画保存の意識を高めさせ,40年たった今でも非常に良い状態で残されているので,やはり重要な偶然の出会いだったとおもう。
だんだんはなしがまとまらなくなってきました。
虎塚古墳の特徴をもう少しメモして終わりにしよ。
石室の入口の位置
・古墳時代後期の前方後円墳の入口は「後円部南側」にあるのが一般的らしい。
ただし千葉から茨城の太平洋沿岸,福島の一部では前方部と後円部の間のくびれ部分にあることが多いらしい。
そして虎塚古墳は後円部南側の「一般的」パターンだった。それはつまり逆にこの地域では例外的なタイプということらしい。
古墳の特徴
・左右非対称の「縦型周掘」→周彫りの北側の側面はまっすぐだが,南側の側面は中央へ向かって内側に斜めに入ったあと的外側へ向かうように折れている。これは立地の問題でまっすぐに作ることができなかったためらしい。他にあまり例のないことらしい。整地すればよかったのにね。
・周掘内には陸橋が設けられていた。
・石室の石材は地元の「部田野石」軽石凝灰岩。加工しやすい。すぐ近くの十五郎穴も凝灰岩層
古墳の作られた時期
・埴輪がない
すぐ近くに馬渡埴輪製作所があるにも関わらず,この虎塚古墳を含む「虎塚古墳群」からは埴輪が発見されていない。
市内の他の古墳群からは発見されているので,埴輪製作所が使われていた時期(6世紀中頃~7世紀初め)以降のかなり遅い時期に作られたと考えられるようだ。
また,石室内から発見された副葬品の大刀のスタイルも古墳時代終末期とみられるようで七世紀の中頃のものではないかということらしい。
虎塚古墳群
その構成数はまだはっきりしていないらしい。
現存する紛糾
円墳2 方墳1 主体部が失われているけど古墳があったことは確認できているもの2
そのいずれからも埴輪は発見されず。壁画もなし。
ただ市内の殿塚古墳には靫の線刻画が見つかっている。
ひたちなか埋蔵文化センターには虎塚古墳の出土品のほかにも面白いものがいろいろあります。
近くに来たときは寄り道してみてください。(2018年2/10からの虎塚古墳の企画展中はこれらは展示されているかちょっとわからないけども…)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180205/09/sima10ra/42/ea/j/o0960054014125598573.jpg?caw=800)
中央の土偶は妊娠しているみたい。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180205/20/sima10ra/f3/f9/j/o3027199814125943604.jpg?caw=800)
子持ち勾玉も。ごつごついがいが。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180205/20/sima10ra/25/07/j/o2629290014125943598.jpg?caw=800)
子どもに乳を与える埴輪さん。
最後に,地元ひたちなか市の和菓子屋さん「おかしの きくち」さんではなんと!虎塚古墳の壁画をモチーフにしたお菓子が!!
その名も「彩色壁画」!!!
まぁ一般的なゴーフレットですね。私はバナナ味がお気に入りです。同じ店の「うさぎのしっぽ」というクリーム大福も大好きです。チョコ味とバナナ味がお気に入り。もし来たときは買ってみてください。
読んだもの
「最新講義シリーズ 装飾古墳の世界をさぐる」 大塚初重
「最新講義 古墳と被葬者の謎にせまる」大塚初重
「史跡 虎塚古墳 発掘調査の概要」ひたちなか市教育委員会
「常陸の後期古墳の様相 」 阿久津久,片平雅俊
「古墳壁画の顔料について」鶴田栄一 他