いきなりですが「Lord Mayo」というアイリッシュミュージックをご存知でしょうか。

 

元々はあまり有名な曲ではなかったそうですが、大人気アイリッシュバンドLunasaの1stアルバム1セット目の1曲目に使われ、世界中のアイリッシュミュージックファンに衝撃を与えて以来、大人気の曲となりました。

 

↓の冒頭の一曲です。ほんとかっこいい…

 

 

この曲はマーチ、つまり行軍曲というタイプの曲で、タイトルから察するにコナハト地方のメイヨー地域を治める伯爵を、おそらく讃える曲なのでしょう。

 

白地図屋さんから拝借。青いところが現代のメイヨー県

 

 

 

 

 

こちらはよく演奏されるより伝統的なスタイルのもの。装飾音ハンパない!!

 

 

 

この曲ものすっごく大好きなんですが、ふとここで讃えられるメイヨー卿って役職というか称号だし、歴代メイヨーを治めた伯爵はたくさんいたわけだし、実際のところ誰の事なんだろうと思い、ネットで調べてみることにしました。

 

 

しかしアイリッシュミュージックに限ったことではありませんが、伝統曲なんて長年楽譜にまとめられることすらなく、口伝で伝わったものがほとんどで、タイトルがはっきりしてるだけでも奇跡的なのに由来なんてわかるのだろうか…と不安でした。

 

 

とりあえず”Lord Mayo”で適当にググってみると…

 

それらしいところでまず出てくるのはthe sessionというサイト。

アイリッシュミュージックファン御用達のサイトですね。アイリッシュミュージックのWikipediaと言ったところでしょうか。曲の別名や誰の録音がどのレコードにあるかなどがまとめられ、さらに閲覧者がコメントできるようになっています。

 

the session

 

 ずっと見ていくと「フィアナの凱旋」という別名(なにそれかっこいい)、演奏バリエーションについて…とある中で

 

「元々はメイヨー卿への謝罪として18世紀のハープ奏者Devid Murphyにより歌として作られた」

 

 

ってコメントがある!

なんと!!!!作曲者名発見…!!手がかり見つかるの案外早かった!

 

 

 

で、David Murphy!!!誰なの!!!!!!

 

 

とまた適当にググってみると

 

おっ!!!

 

なんとなんと!wikipediaに記事があるじゃないか!!!!!

wikipedia:David Murphy (composer)

 

 

それによるとアイルランド生まれのアメリカの警官、フランシス・オニールさん(1848生まれ)がメモっといてくれただと!?神か!!!ありがとうございます!!ありがとうございます!!!!!

 

 

とはいえオニールさんの時代で既に作曲から軽く200年が経っていますね。ええ。オニールさん、有名なアイリッシュミュージックの演奏者たちと深く広い交流があったそうで、その人たちから聞いたのかな?

それとも1800年出版の本に楽譜の掲載があるらしい曲なので、そういうものに記述があったのかもしれませんがソースの怪しさはぬぐえません。しかしとりあえず、オニールさんの話を信じましょう。

 

 

デイビット・マーフィーDavid Murphy…17世紀の作曲家でハープ奏者…

 

この曲、当初はマーチではなくエアーとして作曲されたらしいですね。

 

ということは、さっきのThe sessionのページに貼られてたこの動画原曲に近いのかな。ちょっと聞いてみよう。

 

1:00~曲がはじまります。 

 

 勇ましいマーチとはまた違った趣…

いやそんなことより、この人…前フリで曲のいわれを紹介してくれているぞ!!!

 

 

この男性の解説とwikiをまとめると…

 

どうやらマーフィーさんはメイヨー卿の庇護を受け、その屋敷にいたハープ奏者だったようですが、あるクリスマスの日に何か重大な失敗をしてしまったようです。

 

それにより数年間屋敷を追い出されていたマーフィさんは、友人の助言により、またあるクリスマスイブの日に戻ってきてこの曲とともに謝罪をしたのだそうです。

 

 

 

歌詞はこちらのサイトに英訳とともに掲載がありました。

http://www.celticlyricscorner.net/dochas/tiarna.htm

 

歌詞をみると…大体のところはメイヨー卿を讃えて持ち上げる内容と、クリスマスの事件を終わりにしましょうという事、またメイヨー卿の庇護の下に戻してほしいことなどが歌われているようです。恐らく。たぶん。きっと。(果てしなく自信がない…)

ごめんなさい的なことは言わないんだね…

 

 

うーん。かっこいいマーチ曲のイメージと歌詞の内容とのギャップが…

 


そしてメイヨー卿がどのメイヨー卿かも明示してくれています!!ありがとうwikipedia!ありがとうオニールさん!!

 


えーっと デイビット・マーフィーは初代メイヨー子爵Tiobóid na Long Bourkeの庇護の元にいた天才で…

つまり「Lord Mayo」のメイヨー卿は、ティ…ティオボイド?ナ ロング ボ…ボークさん?なのね???

 

 

とリンク先に飛ぶと…

wikipedia:Tibbot ne Long Bourke, 1st Viscount Mayo

 

 

英語の名前ではTibbot na Long Bourke さんと…ティボット ナ ロング バークさん…?

アイルランド議会の議員で…メイヨー子爵の創設者…

 

 

ふむふむ…あれ?ティボット…バーク???

 

 

ナ ロング は「船の」という意味で船の上で生まれたから、と。

 

 

へぇぇぇぇ?????

 

 

ご先祖はノルマン人で、典型的なノルマン系アイルランド人の一族である…

 

 

ほほぅ…??????

 

彼の母親は有名な海賊女王グレイス・オマーリーであり…

 

 

ん??

 

 

 

あああぁぁぁぁあああーーー!!!!!

 

 

 

あなた!あの!グレイス・オマーリーの二番目の夫で一年で追い出されたあの「バーク」さんとの息子、エリザベス女王配下のビンガム卿に捕まっちゃった、あのTibbot君かーーー!!!!

(前のブログを見てね!!!グレイス オマーリーについて

 

議員で子爵だなんて、大きくなったじゃないのーー!!!(とはいえビンガム卿につかまっちゃった事件の時で27歳)

 

こんなカッコイイ曲作られちゃって…立派になって…うぅ…お母さんもさぞ嬉しいでしょう!!!

 

 

いやー。いやーもう。別々に知っていたグレイス・オマーリーと「Lord Mayo」がつながるとか…!10年来の知り合いが実は親子だったと判明したようなもので、あなたたちー!!そうだったのかー!!と一人でそれはそれはびっくりしたし感動したのです。

 

 

ちなみにティボットくんの奥さんの名前も「メイヴ」だそうです。何か知らんが、やっぱりな!!

 

 

いやー。見事に判明してよかった。すっきりすっきり。

 

 

このビックリを話したくて前回グレイス・オマーリーの話をしました。えぇ。あれは前フリだったのです。

 

しかし親子2人そろって曲が作られ現代まで残るなんてすごい親子だなぁ。

 

 

 

ここまでの一連の話は全てインターネットで調べたことです。

ユーラシア大陸の西の最果てにある島で作られた曲について、大陸の東の最果てにある島で350年たってからでも調べられるんだから,本当にインターネットというのはありがたいものです…

 

そしてそれ以上に、この曲について書き留めた人、忘れ去られそうになっていたところを掘り起こし、全世界へ発信してくれた人がいて、今私が楽しむことが出来るのだと思うと、とても感慨深いです。

 

おしまい

 

 

 

 

フランシス・オニールさんメモ

アイリッシュミュージックの一大都市ドニゴールの出身。

船で働いていたときに、移民としてアメリカに渡ったアンナさんと運命の出会い。

シカゴに移住、警察官として働き,所長にまでなった。

自身もフィドル、フルート、イーリアンパイプを演奏し、有名な演奏者たちとも広い交流があった。

退官後、それまで収集した曲をまとめた本を複数出版し、アイルランドの伝統曲やダンスに多大な影響を及ぼした。

 

この人がいなかったら今に伝わらなかった曲も多いのだろうなぁ。

 

アイルランドの伝説的な「海賊女王」グレイス・オマーリー!!!

 

厳しい人生の荒波にも負けず、あのエリザベス女王と対等に渡り合ったというアイルランドの女性をご存じでしょうか。

 

 しかもその人物が正真正銘本物の海賊で実在したなんて漫画みたいなお話ですよね…

 

そんな彼女は本国アイルランドでも大人気。いまなおその伝説を歌う歌が作られ続けています。

 

この最高にかっこいいグレイス・オマーリーの「伝説」とともに、彼女のことを歌った曲を紹介します。

(今回のおはなしは私が本で読んだりテレビで見たり人に聞いたりしたことに、ウィキペディアと海外の個人サイトなんかを参考にしたお話なので諸々あしからず。)

 

 

Grace O'Malley (アイルランド語Gráinne Ní Mháille)

彼女は1530年の生まれです。燃えるような赤毛だったといいます。

アイルランド西側の真ん中やや上あたり…コナハト地方北西部にあったUmhaillという国の族長の娘、つまり王女様で、高等教育をうけて育ちました。

 

白地図屋さんから拝借

赤いところが代々居城にしたクレア島、緑のところがオマーリー家の支配していたUmhaillという地域(大体)。クレア島が入り口にある湾がclew湾だそうです。

 

 

オマーリーの一族はそこで漁業をする人々に税金を課したり、clew湾の通行税をとったり、スコットランドやスペインとの交易、あるいは素直に従わない商船から積み荷を奪う海賊まがいのことを家業としていたそうです。

 

 

グレイス・オマーリーは「グラニュエール Granuail」の愛称で呼ばれましたが、その元になったという言葉Gráinne Mhaol は「短く切られた髪」を意味するそうです。

 

伝説では彼女が子どもの時にスペインへの貿易に同行を希望したものの、長い髪が航海中にロープに絡まって邪魔になるからと父に断られてしまいます。そこで髪を切ってみせ、航海についていったことが由来だと語られています。

当時の常識にはまらない勇敢で意志の強い女性だったのだと思います。

 

ちなみにグレイスの母の名前はマーガレット「メイヴ」という説もあるそうで、よくある名前とはいえ妙に納得しますね。えぇ。

 

↑キャシーライアンさんがグレイス・オマーリーをうたったオリジナル曲。

海を感じさせるすごくかっこいい曲。大のお気に入り。ぜひ聞いてみてください。あとイラストが最高すぎる。

 

 

このころのアイルランドは既にイングランド王ヘンリー8世の支配下になっていました。

あまり厳しい支配ではなかったとはいえ、その影響はグレイスの両親にも及びます。

 

イングランドの統治に反抗した彼らは、貿易の重要地ゴールウェイ湾から締め出されてしまい、家業は大打撃を受けます。

その復讐としてグレイスは船を率いてゴールウェイ湾に入ろうとする商船を襲いまくったそうです。

もうすでに立派な海賊…

 

 

そんな彼女は近隣国の有力一族の男性ドネル・オフラティDónal O'Flaherty と結婚し、二男1女(名前はメイヴ!)をもうけ、やがてこの夫が族長をつぎました

 

しかしこの夫は戦死してしまいます。身内の裏切りもあったようです。当時の社会、裏切った身内が女性であるグレイスに族長となることを認めず、身分も財産も失ってしまいます。

 

それでもグレイスのカリスマに魅了されていた部下たちは、彼女の元に残ることにしました。そんな仲間たちとともに、グレイスはこれまでの「家業」の経験を活かし、いよいよ正真正銘、本物の海賊となって海へ繰り出すのです!!

 

 

 

 

↑Eimear Keaneのオリジナル曲。遠い昔の伝説を思わせるノスタルジックで美しい曲。

その中にも海賊女王にふさわしい力強さがある。いい歌だわ…。

 

 

 

やがて彼女はノルマン人入植者の一族、リチャード・バーク Rechard Bourkと二度目の結婚をします。これは完全な政略結婚で(まぁ一度目も政略結婚ですが)バーク家は14世紀末からグレイスのUmhaillがあるメイヨーMayo県を治めていた一族であり、彼が持つ製鉄の利権やいくつもの港の支配権を狙ってのものでした。

 

グレイスは遠征中の船の上でバークとの子Tibbot(ティボット?)を産みますが、それを待たずに結婚一年で夫は追い出されてしまいます。そして出産翌日にはトルコ海賊との戦いで暴れ回ったのだそう。おかあちゃんほんと強い…

 

しかしこのバークとの息子が大事件のきっかけとなります。

 

 

イングランド王は、かのエリザベス1世へ変わります。

 

エリザベス女王時代、イングランドは他国との戦争、とりわけスペインとの対立に疲弊し、財政は危機的状況でした。

 

対スペインの戦力として私掠船、つまり海賊船にスペインの船への略奪行為の許可状をあたえます。また彼らの略奪品の一部をイングランドに納めさせ、財政に当てました。

有名どころではフランシス・ドレイクなんかもいますね。その同時代のお話です。

 

 

そんなわけでグレイスもがんがんスペイン船を襲いまくります。

 

 

しかしやがてアイルランド国内では英国の支配に対して不満がたまり、反乱が頻発するようになりました。

この反乱にグレイスも兵力を出したようです。

また英国と対立していたスペインも「敵の敵は仲間」理論でアイルランドに援助をします。

 

 

そんなわけでエリザベス女王は今度はグレイスたちが邪魔になります。

 

 

 

↑カナダのフォークパンクバンドDreadnoughtsのとにかくアップテンポでたのしい曲。

カナダにもアイルランドからの移民は多くありました。

グラニュエェェェエエル!パイレーツ クイィィィイン!!!!

 

 

 

1593年、イングランド海軍のビンガム卿がグレイスの二人の息子(最初の夫の子と二番目の夫の子ティボット)とグレイスの兄弟を捕らえます。

ビンガム卿はコナハト知事となり、グレイス含め代々の有力者たちから土地を奪い、またアイルランド各地での反乱軍を鎮圧、虐殺を繰り返していた人物です。嫌なやつ!!

 

 

息子たちの危機を知ったグレイスはすぐさまエリザベス一世に書状を送り、さらに敵だらけの英国へ単身乗り込み、女王との会談を実現させます。

 

政略結婚したリチャード・バークのことは一年で追い出しても、その夫との子どもは愛していたんですね。(自軍が不利になると思っただけかもしれないけど)

 

 

伝説によるとエリザベス女王をアイルランドの支配者と認めないグレイスはおじぎをすることもなく、ダガーを一本携え、2人はラテン語を使って話したそうです。互いに「お前んちの言葉なんか話せるか」ってことなんですかね。つよいねー。

 

 

この女同士のタイマン勝負については詳細は分からないそうですが、

 

・グレイスの一派が英国への反乱をやめること

・ビンガム卿をアイルランドから撤退させること

・グレイスの領地や城をかえすこと

 

などの和平条約が結ばれ、捕らえられていた二人の息子とグレイスの兄弟を取り戻したのでした。

その後グレイスは1603年に72、3歳で亡くなります。奇しくもエリザベスⅠ世の没年と同じです。

 

 

 

このようなお話をすると、当時のアイルランドは輝かしい時代をおくっていたように思うかもしれません。

しかし実際にはどんどん厳しくなるイングランドの支配とそれに対する国内の反乱とで大きな被害を出し、国が混乱・疲弊した非常に苦しい時代でした。

 

 

このグレイス・オマーリーとエリザベス一世の会談も、「9年戦争」(1595-1603年)とよばれるアイルランドとイングランドの泥沼の戦争の一幕です。この戦争は最終的にイギリス政府軍が勝ち、アイルランドの反乱軍の中心人物は大陸へ逃亡してしまいます。グレイスとエリザベス女王の和平条約も結局はほとんど守られる事はなくビンガム卿はすぐにアイルランドに舞い戻り、グレイスも領地を取り戻す事はできませんでした。

 

 

更にまたイングランドへの反乱,イングランドによる鎮圧が起こり,これに続きクロムウェルによるアイルランドでのカトリック信者の虐殺(1649-1653年)で人口が15%以上減少した事などがとどめとなりイングランドによるアイルランド支配は完成されてしまいます。

 

こうしてアイルランドの歴史の中でも長い期間を占めるイングランドによる支配とそれへの抵抗という苦しい時期が始まり、最終的には併合されてしまうのです(1801年)。

 

 

 

↑こちらは:O'Neill's Music Of Irelandという1850年出版のアイリッシュミュージックの楽譜本に掲載のある曲。

いわゆるアイリッシュトラッドミュージック。

この本が出版された前年に悪名高い「ジャガイモ飢饉」が起きています。

 

 

 

人類は世界中で古代から英雄たちの活躍を歌にしてきました。

しかし、その没後400年を経てなお新しい歌が作られ続けている人物はあまり多くはないと思います。

 

 

彼女の人気の秘密は何でしょうか。

一つには、彼女がイングランドへ抵抗するアイルランドの象徴、あるいはアイルランドそのものとされることが挙げられます。

長年アイルランドを支配し苦しめることになるイングランドの女王エリザベス一世を相手に一歩も引かず、対等にやりあったと言われる彼女はアイルランド人の誇りなのだと思います。

 

実際のところグレイスはエリザベス女王に自身の困窮を訴え、領地を返してくれるよう何度も書状を送り、最後は彼女自身もイングランド側につかまり、幽閉先でなくなってしまったようで、女王に対しての立場もかなり弱かったようです。しかしだからこそ、危険を顧みず女王の元へ乗り込んだ勇気が讃えられているのかもしれません。

 

またその波乱にみちた人生に強いロマンを感じさせることもあるでしょう。

 

 

私はアイルランドの歴史でも最も暗くつらい時期に颯爽と現れて、広く青い海で燃えるような赤毛をなびかせ、男性だろうがイングランドの女王だろうがひるむことなく生き抜いた彼女の人生に強いあこがれを感じます。

 

数々の苦難にも負けることなく果敢に挑みつづけた彼女の姿に、多くの人が思いや願いをのせて今の時代の歌を作り、歌い続けているのだと思います。

 

 

 

さて、この話には続きがあります。よければ、ぜひ次の記事も読んでください。

 

ここまで長いお話お付き合いありがとうございました。

虎塚古墳についていろいろ読んで書いてみたくなったので書いてみる。

 

虎塚古墳の壁画の内容と副葬品が少ないことを組あわせると,壁画は副葬品の代わり,すくない副葬品を補うためのものという意味合いがあったという考えを支持する。

 

 

この壁画は南九州の古いスタイルとの類似が指摘されているが,大きな違いの一つに人間が描かれていないことが挙げられている。

つまり被葬者ないし地域の人間が何かをする様子を描いたものではなく,物を描きたかったのかなと思う。

 

例えば奥壁の二重円ABは太陽ではなく鏡が実際に壁にかけてあるようにみせたかった,西壁JKは「星と月で航海中の天測」ではなく鏡と弓が壁にかかっている様子ではないかと思った。

そう思う一番の理由は東壁の棚の上に載ったP靫とO盾かなにかの絵だ。どう見ても石室内の壁に取り付けられた棚に乗せられている様子に見える。出なければわざわざ靫と縦の下にだけラインを引くだろうか。「R棚の下の謎の何か」も棚の重みを中央で支える補強のパーツだと思う。

奥壁の東北に斜めに建てかけられた三本の太刀の絵にしてもそうだ。本物の太刀が斜めにかけられている,その様子を表しているとしか思えない。となると,奥壁の二重円が本物の太陽と月を表している,西壁の九つの円が太陽ないし星をあらわし,その下のU字が船で天測の様子,では文脈が一貫しない。実際のものがあたかもそこに副葬品として実際に置いてあるかのようにみせたかった絵と,抽象的なイメージ,別のところでいつか行われたことを描いた絵が一つのキャンバスにごちゃまぜにして描かれるものだろうか?

 

石室上部の連続三角文は天蓋,奥壁下段の連続三角文は副葬品をおく台じゃないのかな。

本来はすべて実物で実際に部屋をかざるべきところだけど,貧乏だったのか時代の流れで簡素化されたのか,絵で代替した。という風に考えられているそうで,だったらやっぱり壁画に月や太陽や船はちょっと違う気がする。

 

 

こう考えると,壁画で副葬品を代替しているので,実物の副葬品が少ないのは不思議でもないかもしれない。古くからの伝統だった牛や人間を殺して生贄にした儀式を,生贄をかたどった像を割ることで置き換えたり,時代が下がるにつれ儀式が簡略化され,ホンモノをニセモノで代替するようになるのは世界的にもよくあることかと思う。

とすると,副葬品の貧相さは必ずしも被葬者の力が弱かったことには直結しない可能性もあるのではないかと思う。

 

 

でも周辺の古墳や横穴墓には豪華な副葬品がある。それはなぜなのか。

 

 

古墳というのは後円部の直径や頂部,前方部の長さとの比率,周濠の淵までの長さ…とか,いろいろなポイントからポイントまで線を引いての長さを直径にしての円が…どうとか…こうとか…

この話めんどうくさ…難しくてよく読んでいないけども,ともかく,古墳というのは各ポイント間の長さの比とか「設計プラン」が畿内の古墳と地方の古墳で一致する古墳があるんだそうで,それは畿内の大王の墓を模してつながりを示し,権力をのつながりを誇示する狙いがあったんだと考えられているらしい。

 

で,それでいくと虎塚古墳は兵庫県「雲部車塚古墳」と同じタイプだとか。

でも壁画は南九州の古いものとの類似が指摘されている。

 

 

墳丘は畿内。

石室は凝灰岩の板石に副室がないタイプ=霞ケ浦の奥まった地域,那珂川と久慈川の海に近いところに多い=霞ケ浦と海路の要所のつながり

壁画は南九州

といろんな地域の特徴を持っているようだ。

 

 

また,すぐ近くの十五郎穴横穴墓。横穴墓というのは九州発祥らしい?

でも県内では78の横穴墓群があるがうち53郡が県北地域,常陸太田市や日立市にあるとか。

北なのか南なのか??

そしてその十五郎穴からは,正倉院所蔵のものと類似が指摘されている蕨手刀が発見されている。被葬者は大和政権とのつながりがあったらしい。

 

 

この虎塚古墳周りは結構いろいろな地域の特色を持った遺構遺物があるように思う

北側との水上交通の道だった久慈川と,虎塚古墳からも近い那珂川は那須地域に伸びていくし久慈川とも近いので北側の文化も流れてきただろう。そしてなにより霞ケ浦(湖ではなく太平洋へつながる内海だった)を経由しての海路の要所でもある。

 

この地域にはいろいろな地域からいろいろな文化的背景を持った人たちが来ていたのではないのかな?

 

だから近い立地で近い時代の遺構や遺物を比べてその差が大きくてつじつまが合わないと悩むのはどうなのかな?

違う文化や価値観をもつ別のグループの人たちだっただけなんじゃないの?

 

 

 

結局二度の埋葬はどういうことだったのか

 

皆目わかりません!!妄想すらできないくらいわかりません!!もっと本読みます!!!

 

やっぱり最初の被葬者とふたりめの被葬者は近親者だったのかな…仲悪かったのかな…家庭内権力闘争とかかな…でも副葬品は捨ててたのに壁画は残すんだね…塗りつぶしてもよかったろうに。

 

 

第二の被葬者が宗教観がわからない。前の被葬者の副葬品(もしかしたら遺骨も…?)を新しいところに納めなおすでもなく,ぞんざいに扱い捨てて古墳をのっとってしまっているので,きっと祟りとか信じない現実主義者なのかなと思う。でも一方で壁画は残し,自分の分も描き足している。これが外から見えるのなら,古くて素晴らしい壁画に自分の絵を加えることで権力のアピールにもなるかもしれないが,誰からも見えない部分だし。壁画の呪術的力を自分も得たかった以外に理由があるのだろうか…よくわからない…

 

案外ふつうにただリサイクルしただけなのかなー。周りが考えるほど本人たちは大してどうとも思ってなかったのかもしれないよね…

 

そんなかんじでまとまらないけど終わっちゃおう。

虎塚古墳最高!!!

 

 

 

「雲部車塚古墳」

​​​​全長約140mの前方後円墳

兵庫県内二番目の規模

被葬者は開化天皇の孫とか,それだと時代が合わないとかいろいろあるみたいだけども

宮内庁の「陵墓参考地」になっていている。

 

 

茨城県にある古墳で,私の一番のお気に入り古墳は,ひたちなか市の虎塚古墳。

それは多くの珍しい特徴と謎がある,とてもミステリアスでワクワクする古墳だから。

そして発掘者の大塚初重先生が,発掘に至るまでに偶然に偶然が重なった面白い経緯を紹介しているから。

 

 

 

そんな虎塚古墳に関する展示が行われるらしい

茨城県考古学協会の公式ブログ1/5の記事より

http://blog.livedoor.jp/takepon1017/

「第15回企画展「虎塚古墳の時代」

平成30年2月10日(土)~平成30年5月6日(日)
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター 
「虎塚古墳がつくられた7世紀について,市内や近隣の古墳出土の遺物を展示して,わかりやすく紹介します。」だそうだ。

結構期間が長いし行ってみたい。

これまで虎塚古墳関連で読んだものは割と古いものばかりだったから,最近のなにかあたらしいはなしがないか楽しみ。
 

 

 

 

さて,そんな虎塚古墳の特徴と謎をめも。自分が読んだ本や報告書,jstageから拾ってきた論文をまとめためもなので文中は「らしい,だそうだ,ということだ」ばかりになるけどもご容赦を…あくまでも自分の趣味で遊びでめもしためもなので…

 

虎塚古墳基本情報

全長52m×幅(前方部280.5m,後円部28m)

高さ 前方5m,後円5.5m ともにほぼ同じ高さ=典型的後期古墳=横穴式石室のパターン(らしい)

 

 

 

 

壁画

まずは何といっても,壁画。白色粘土で下塗りされた上にベンガラ(酸化鉄)で彩色された不思議な幾何学模様の壁画だ。

 

「古墳壁画の顔料について (鶴田栄一)」で常陸の国風土記の久慈のところにある「北の山に有る所の白土は、画に塗るに可し」と,絵に使う白い顔料の土が久慈で取れたとの記述について言及されている。

また同じ久慈で「青土」について「有る所の土の色は、青き紺の如く、画に用いるに麗し」。やはり絵に使う青い顔料が取れたという記載についても指摘している。

虎塚古墳の白色粘土もここのものなのか?青土は使われていないんだなぁ。時々朝廷に献上したらしいから高級で地方では使えなかったのかな?

 

絵自体についても丸や三角,抽象的な絵で素人目では何が描かれているのかわかりにくい。九州の古墳の壁画との類似が指摘されているが,チブサン古墳や王塚古墳などは6世紀とだいぶ古い。虎塚古墳は7世紀とだいぶ後になって茨城でこれだけの壁画がかかれたのはなぜなのか。

茨城に九州の人々が「大規模に」移り住んだという「伝説」もある。これについてはもちろんある程度は九州とつながりのある人が暮らしたことは間違いないだろうが「大規模」な移住があったかというと,方々で問題が指摘されまくっている(多氏一族の伝説とかね)。これについてもいつか何かメモをまとめたいと思っているが今は古墳だ。古墳。

 

 

この鮮やかな朱!不思議な文様!あぁわくわくする…!!!

これは虎塚古墳併設の「埋蔵文化センター」内のレプリカです。写真オッケーとのこと。

本来ふたをされて見えないはずの入口の上下左右にも三角文。

 

いい…いいねぇ…さいこうだ…

天井と床にも彩色されてます。

 


 

 

壁画の内容の解釈

描かれる内容がわかるとより面白く,当時の人々のことが少しわかったような気がして楽しいとおもうので,いろいろな本や報告書で挙げられていた壁画の解釈をメモする。

 

資料はこれです。ひたちなか埋蔵文化センターでもらえる「つくってみよう虎塚古墳」

色を塗って組み立てると石室の様子が再現できる!すごい!たのしい!

 

 

奥壁

アルファベット振ってみました。わかりにくくてスミマセン

 

A  直径34センチの二重円

B 直径32センチ二重円

 共にコンパスでかかれたもの。中心にコンパス跡がある。

 塗り方の丁寧さに差がありAとBは別の人が書いたものかもしれない。

 鏡説,太陽と月説等が挙げられている。

 また,蛇の目説もあり,壁の上下の連続三角紋は鱗文様と解釈するようだ。

 

 

C コンパスで書かれた円。彩色はない。

 

D 槍,鉾,太刀?

まっすぐに建てられ,上から下へ細くなっている。15本。

 

E 靫(矢を入れる入れ物):10本の矢が入っている。

 

 

F 隣り合う二つで一組か。何を表すかははっきりしないらしい。

 ・冑(兜と鎧セット)説。

 ・鞆(弓矢をいるときの左手の防具)説…なぜ二つを上下逆で描いたのかという疑問があるんだって。

 

 

G 大刀 3本

 ・Dの槍矛に比べて明らかに斜めに立てかけられた様子を表している。鬼門(北東)の魔除けかといわれている。しかしこの頃から鬼門の考え方があったのか,という問題があるらしい。

 →実際に他の古墳で同様に石棺や壁に本物の大刀が立てかけられた状態で発見されているケースがある。(群馬県綿貫観音山古墳,茨城県風返稲荷塚古墳,ほか)

 ・三本はそれぞれ柄頭の様子から円頭大刀,鹿角大刀,頭椎(かぶつち)大刀,といわれ,,いずれも儀仗用の大刀であるので魔除けには似つかわしい。らしい。

 

 

H 砂時計のような三角が上下に組み合わされた図文

  上の三角と下の三角は一筆書きではなく,それぞれ分けて書かれたものらしい。

  何であるか書かれたものは見つけられていない。

 

 

 

西壁

アルファベット見にくい!もっと大きく書けばよかった!

 

I 上部の連続三角文。

二つの石にまたがって書かれているように見えるが,奥壁に近い大きい方の石方が,小さい伊師よりも丁寧に描かれている。別の人間によって描かれたらしい。

 

 

J 円 9個

 14.5センチ~15センチ。コンパスで描かれる。

 ・鏡説

  除魔の意味か。多くの鏡を副葬する文化は4~5世紀のものだそうで,実物の鏡から壁画に変えたとはいえこの地域では7世紀までその伝統を保持したということなのだろうか?という疑問があるらしい。

 

 ・太陽説 複数個の太陽が同時に出現する伝承を思い出すが…?

 ・星説 奥壁の大きな二重円ABの「太陽と月」説と併せて,太陽と月と星宿と想定する考えもあるらしい。次のK船説と併せて航海の天測の様子説もあるとか

 

 

K 壁中央に浮かぶU字型

 ・船説 

 海からも近いので,似つかわしいかもしれないと感じる。また,すぐちかくの十五郎穴横穴墓からは大和政権とのつながりの証拠かといわれる蕨手刀が見つかっており,この地域が東北への海路の中継地点として重視され,その管理をした責任者のものではないか,といわれているので,やっぱり海,船と結びつけたくなる。

また,死後の世界への船での旅立ちの表現との解釈もある。

熊本県永安寺東古墳の壁画の船の描写との類似が指摘される。同古墳の石室には東西の壁面に横に並んだ12個の円が描かれ,その点でも虎塚古墳との類似が指摘もあった。

 

 ・三日月説 Hの9個の円「太陽説」と併せる。

 ・弓説 他の古墳でも壁面に弓を描く壁画の例があるが,虎塚古墳のものは特に抽象的で判断できないとのこと。

 

 

L 長靴みたいなやつ。2つで一つらしい

 ・鐙説が有力のようだ。

 

 

M 凹字形図文×2

 ・鞍と障泥(どろよけ)説

 ・火打石を入れる袋説

特に茨城県南部は馬の産地として昔から有名であること,虎塚古墳のすぐ近くの馬渡埴輪製作所では馬型埴輪が見つかっており,また県内でも船塚山古墳の金の冠に馬型の飾りがある他,馬具の副葬品が非常に多いことからも,馬具の壁画があるのは似つかわしいんじゃないかな。

 

 

東壁

N 天井付近の連続三角文から縦に線が伸びた先に円が描かれる。

  天井からつるした鏡説

 

 

O 双頭渦巻き文

 ・Mのすぐ下に描かれる。鬼門のおまじない説

  平城宮跡出土「隼人の盾」の渦巻き文との類似性の指摘もある。

 

 

P 棚の上の靫×2 矢が13本ずつ入っている。

 靫の真ん中でくびれて下に向けて広がるスタイルが福岡県の古墳の壁画と類似しているらしい。

 ・高坏など儀式用の土器説もある。

 

 

Q 棚の上の三つの何か

 ・上に乗って踊る桶説

 ・何かの器を伏せて置いている説

  古代の葬送儀礼に空の桶を矛で突く行事があるらしい。そのための桶なのかな?

 ・盾説

  鍋田27号横穴(熊本)や太田古墳(佐賀)日の丘古墳(福岡)の明らかに盾と思われる壁画と類似があるらしい。自分でも画像検索してみたが…類似といえるほどかは分からない。でも靫や船の表現は似ている気がした。

 

 

R 棚の下から出た何か

 ・皆目見当がついておりません。どの本にも「こうかな?」くらいの憶測も載っていません。なんなら触れられていない場合もあります。

  個人的には,棚の重みを支えるための木とか留め具かなとおもった。

 

 

S 井桁状図文 

 ・織物の枠説

 ・家屋説  なんでこの位置に家が描かれるんだろうね。という疑問はあるらしい。そしてこの形で家屋が描かれる前例がないとか。

 ・盾説 

 

 

T 有刺棒状文

 ・祭祀の道具説

 

 

U 楕円形のものに玉状のものが配してある。

  ・ネックレス?上部には紐を結んだような表現も見られる。しかし首飾りの壁画は類例がないらしい。

 

 

V 武器か,靫か?

  上部は櫛歯状の表現になっている。

 

W 西壁のLと同じものか。鐙

 

X 西壁Mと同じか。鞍と障泥か。

 

 

 

さて,さて。長かった。

全体を見ると,円文,三角文,武器武具…と九州,特に熊本のかなり古い時代の彩色古墳壁画との類似が指摘されている。

一方で墳丘の形態や内部の構造,副葬品に関しては常陸地方の伝統的スタイルと言え,そのギャップがまた謎。

 

 

ところで壁画全体を見渡した時に,東西の壁の入口付近に固まって描かれている,西壁(LM)と東壁(STUVWX)の入口付近の絵について何か他の絵と違う雰囲気を感じないだろうか。

他の部分の壁画が幾何学文と武器武具が描かれているのに対して,このエリアは馬具や呪術的な道具か何か…と,内容の違いが指摘されている。確かに言われてみれば,描き方も小さいし,他の部分程しっかりとした筆致ではないようにおもう。

ここの部分の壁画は後からかきたされたものではないかといわれている。

「あとから描き足す」というのは,どういうことか。

 

実は,虎塚古墳では埋葬は二度あったといわれている。

 

 

 

石室入口に捨てられた「前の副葬品」

墳丘にあいた石室入口の東西に拳大の河原礫の層が見つかっている。この石は虎塚古墳内の他の場所に使われた様子はない。

その中に鉄鏃,鉄釧(腕輪),鉾,鉄釘,環状金具などが発見されている。

 

鉄鏃…40点以上。石室内で発見されたものに似ている。

環状金具,鉄釘…何か(木棺?)の装飾パーツか

鉄製鉾先…17.6センチ。当初から柄ははずされて埋められていたらしい

(後期古墳の特徴的副葬品。らしい。)

 

 

どういうことか分かりにくいとおもうが

①7世紀初めに古墳が作られる。壁画がえがかれ,おそらく木棺で一度目の埋葬が行われる。

②7世紀中頃に最初に埋葬した副葬品など石室内のものを土と一緒に墳丘の外へ掻き出して石室への入口脇に左右へ捨てる。

それから壁画を描き足し,新たな副葬品と共に石室内に被葬者をを横たえ,二度目の埋葬をした。ということらしい。

 

 

 

二度あった埋葬

ここが私が惹かれる第二の謎ポイント。

一つの古墳を代々つかっていく追葬ではなく,中のものを掻き出してしまって再度埋葬しているところに謎を感じる。こういうことはあまり類例がないらしい。

しかも二回の埋葬はそれほど時期が空いていない。

 

いったいなぜなんだろう。

時期が空いていれば,もう誰が入っているかわからない古墳だから中を片付けて再利用する,ということもあるのかもしれない。

最初の被葬者と二度目の被葬者は親子や兄弟など近親者ではないかとの話もある。

しかし,たった数十年。これだけ立派な壁画を残すほどの近親者に敬意も払わず無残にお墓から追い出し,副葬品も別のところに改めて納めるでもなく入口に討ち捨ててしまうということがあるのだろうか。

 

力があった人物の墓を破壊してそこに自分が収まることで権力ののっとり,上書きができる効果はあるかもしれない。少し事例は違うが,県内の鹿嶋にある宮中野大塚古墳では古墳の石室の石を引っ張り出して破壊し,わざわざそれをまた中に戻す,ということが行われている。畿内政権が在地色の強い古墳文化を破壊し,体制が変化したことを象徴的に示すための儀礼的行為であったのではないかと考えられたりしている。

 

しかし,二回目の被葬者の副葬品を見ると,決して豪華ではない,どころか壁画の立派さに比べると盗掘がなかったのに正直貧相に見える。

 

 

2度目の副葬品

(ひたちなか埋蔵文化センター展示/写真撮影きいたらOKしてもらえました!)

・小太刀1口

・刀子(ナイフ)1本

・鉄鏃

・やりがんな

・毛抜き型鉄器(刀をつるすためのベルトの金具?)

・透しのある鉄板(用途不明)

以上。以上!!正直,前の被葬者の権力を上書きするほどの実力者に思えない貧相さ!武力もお金も持っていなさそう!!

 

 

あるいはこの質素な副葬品がその人たちの風習だったのか,そういう時代だったのかもしれない。

しかし近隣にある虎塚古墳より古い笠谷古墳群からは金銅製馬具がでたり,逆に時代の新しい十五郎穴横穴墓群からは金銅装の大刀,正倉院所蔵品に類似した蕨手刀ほかけっこう豪華な副葬品が,すぐちかくの指渋横穴でも勾玉が出ていることが指摘されている。

やっぱりここだけが特別に貧相なのではないか…?壁画の入り口付近に申し訳程度に描き足した稚拙で自信なさげな小さな絵がまた貧相さに拍車をかける…

 

笠谷古墳群の副葬品(ひたちなか埋蔵文化センターの展示)

 

 

 

 

 

 

うーん。何があったんだろうね…

 


 

さて,話題を変えて。次に。

 


 

虎塚古墳の発掘に関して,偶然に次ぐ偶然が起こしたエピソードを大塚初重先生がご自身の著書で語っている。とても面白い話なのでめもめも。

まず前段として,虎塚古墳のすぐ近くにある馬渡埴輪製作所遺跡の発見があった。

 

 

1 馬渡埴輪製作所遺跡の発見

 

a)埴輪制作の窯跡を発見

茨城県日立市出身の明治大学の学生が帰省ついでに勝田市(現ひたちなか市)の公民館で考古学資料を見学。完形の馬型埴輪を見つける。

ひたちなか市埋蔵文化センターにある馬埴輪。このどちらかなのかな。

馬埴輪可愛くて大好き。

 

その埴輪が「古墳でもない谷からの出土」であったことを不思議に思い,大学で師事していた大塚先生に報告し,市へ調査を申し入れることとなった。調査の結果,炭,埴輪片,赤く焼けた土が見つかり埴輪用の窯跡と断定して発掘をすることになる。

 

 

b)埴輪工房,工人住居跡発見

発掘中に近隣住民からアイスの差し入れをもらい,食べた後のごみを埋めようとその辺に穴を掘った。そういう時代だったんだね…

すると何かの遺構らしきものがでてくる。調査すると埴輪の粘土採掘坑,形成工房,職人の住居跡がみつかる。一帯が大規模な埴輪制作の複合施設とわかった。

 

大学生の帰省中のきまぐれな寄り道と,アイスの棒によって県内でも重要な遺跡が発見されたのだった…ひたちなか市は昔からものづくりの町だったんだねぇ…(今も日立製作所や製紙工場はじめ工場がたくさんある)

 

 

 

2虎塚古墳の発掘依頼を受ける

埴輪製作所の調査中に見学に来ていた地元住民が大塚先生に「うちの山にある古墳も掘ってほしい」と声をかけられる。これが虎塚古墳なわけだが,費用面等から難しいと断る。

 

しかし数年後,この埴輪製作所調査が縁となり勝田市から市史編纂を依頼された大塚先生は「そうだ,あの時たのまれた古墳を掘ってみよう」と思いだし,市に提案,調査することとなる。そしてあの,ベンガラで描かれた幾何学模様の彩色壁画を発見するのだ。

つまり埴輪製作所の調査がなければ,壁画も発見されなかった。大学生とアイスの棒が壁画につながるわけである。世の中本当に何がきっかけになるかわからない…

 

 

3 高松塚古墳の壁画保存へ協力

虎塚古墳の調査が始まり,隙間から壁画があることを確認し,いよいよ石室をあける!という直前に,大塚先生は金沢への出張に出かける。その帰りに福井で行われていた発掘現場へ寄り道をする。自分の教え子が参加していたので様子を見に行くためだった。

 

手土産にしたビールで宴会となった席で東京文化財研究所の保存科学部,新井英夫先生とたまたま同席になる。新井先生は当時高松塚古墳の保存に携わっていたが,「本来閉鎖されていた空間にある壁画」の保存に適した温度湿度・空気の成分・微生物等について元となるデータがまったくないと頭を悩ませこう言うのであった「どこかに未開口の横穴式石室はないでしょうか…」そして大塚先生はこう答えるのであった。「わたしこれから茨城の古墳掘りますけど…」もちろん虎塚古墳のことだ。

 

そんなわけで虎塚古墳の石室を開ける前には新井先生にも来てもらい,いろいろな計測をしてデータをとり,高松塚古墳の壁画の保存にも役に立てられた…はずなのだが,ご存知のように現在高松塚古墳の壁画は劣化がとまらず,結局壁画部分を取り外し,施設にうつされて保存されている。茨城人としてちょっとくやしい。しかしこのデータは虎塚古墳の壁画保存にも役に立っているし,なにより市や発掘に携わる人々に虎塚古墳の壁画保存の意識を高めさせ,40年たった今でも非常に良い状態で残されているので,やはり重要な偶然の出会いだったとおもう。

 

 

 

だんだんはなしがまとまらなくなってきました。

虎塚古墳の特徴をもう少しメモして終わりにしよ。

 

 

 

 

石室の入口の位置

・古墳時代後期の前方後円墳の入口は「後円部南側」にあるのが一般的らしい。

 ただし千葉から茨城の太平洋沿岸,福島の一部では前方部と後円部の間のくびれ部分にあることが多いらしい。

 そして虎塚古墳は後円部南側の「一般的」パターンだった。それはつまり逆にこの地域では例外的なタイプということらしい。

 

古墳の特徴

・左右非対称の「縦型周掘」→周彫りの北側の側面はまっすぐだが,南側の側面は中央へ向かって内側に斜めに入ったあと的外側へ向かうように折れている。これは立地の問題でまっすぐに作ることができなかったためらしい。他にあまり例のないことらしい。整地すればよかったのにね。

・周掘内には陸橋が設けられていた。

 

・石室の石材は地元の「部田野石」軽石凝灰岩。加工しやすい。すぐ近くの十五郎穴も凝灰岩層

 

 

古墳の作られた時期

・埴輪がない

 すぐ近くに馬渡埴輪製作所があるにも関わらず,この虎塚古墳を含む「虎塚古墳群」からは埴輪が発見されていない。

 市内の他の古墳群からは発見されているので,埴輪製作所が使われていた時期(6世紀中頃~7世紀初め)以降のかなり遅い時期に作られたと考えられるようだ。

 また,石室内から発見された副葬品の大刀のスタイルも古墳時代終末期とみられるようで七世紀の中頃のものではないかということらしい。

 

虎塚古墳群

その構成数はまだはっきりしていないらしい。

現存する紛糾

円墳2 方墳1 主体部が失われているけど古墳があったことは確認できているもの2

そのいずれからも埴輪は発見されず。壁画もなし。

ただ市内の殿塚古墳には靫の線刻画が見つかっている。 

 

 

 

ひたちなか埋蔵文化センターには虎塚古墳の出土品のほかにも面白いものがいろいろあります。

近くに来たときは寄り道してみてください。(2018年2/10からの虎塚古墳の企画展中はこれらは展示されているかちょっとわからないけども…)

 

中央の土偶は妊娠しているみたい。

子持ち勾玉も。ごつごついがいが。

 

子どもに乳を与える埴輪さん。

 

 

 

最後に,地元ひたちなか市の和菓子屋さん「おかしの きくち」さんではなんと!虎塚古墳の壁画をモチーフにしたお菓子が!!

その名も「彩色壁画」!!!

 

 

まぁ一般的なゴーフレットですね。私はバナナ味がお気に入りです。同じ店の「うさぎのしっぽ」というクリーム大福も大好きです。チョコ味とバナナ味がお気に入り。もし来たときは買ってみてください。

 

 

 

 

読んだもの

「最新講義シリーズ 装飾古墳の世界をさぐる」 大塚初重

「最新講義 古墳と被葬者の謎にせまる」大塚初重

「史跡 虎塚古墳 発掘調査の概要」ひたちなか市教育委員会

「常陸の後期古墳の様相 」 阿久津久,片平雅俊

「古墳壁画の顔料について」鶴田栄一           他

「シュメール神話集成」杉勇/尾崎亨 ちくま学芸文庫 


3イシュタルの冥界下り

 

冥界で死んだイシュタルを救うためにエンキが使いをだす。

冥界ではエレシュキガルが病にかかっている。それはお産によるものらしい。

ギリシャ神話では冥界では子供は生まれないことになっているらしい。実際に冥界の王ハデスには子どもがいない。

メソポタミアの冥界の女王には子どもがいるのだろうか?

しかしこの部分は,エレシュキガルは死産だったため悲しみにくれ病になった,という解釈があるようなので,やはりメソポタミアの

冥界でも子供は生まれることはないのだろうか

 

ともかくイナンナの指示でニンシュブルが実行した「大きな肛門をかく」というのがどうにも,どういうことか気になって仕方がない。

肛門…しかも大きいんだ…そうなんだ…注釈に「大きなお腹」という解釈にも触れているけど,それはそれでどういうことだろう。

太っているのか,あるいは妊娠したおなか?イナンナの従者であれば妊婦でも似つかわしいような気もするかも?

 

あと冥界でイナンナに「死の目」で死をもたらした裁判官たちや,イナンナ復活後に身代わりを探しに同行したガルラ霊たちなど,冥界のみなさんがイナンナを「イナンナさん」呼びしているのがすごく可愛い。地上では偉いイナンナでも,冥界の主人はあくまでエレシュキガルであり,さらには身ぐるみはがされ普通の使者と変わらない状態だったイナンナに対して冥界のみなさんはそのくらいの扱いなんだな。面白い。

 

断片で死んだドゥムジを嘆いて姉のゲシュティンアンナが悲しみで服を割いたり頬をひっかいたりしている。ギリシャ神話にも悲しみに暮れる様子について同じしぐさが出てくる。とってもおもしろい。

つづけてゲシュティンアンナは死んだドゥムジへのよびかけとして「ああ私の弟よ,『妻もなければ』子供もいない若者よ」という。直前で当のドゥムジがイナンナの兄ウトゥに対して「あなたの妹を妻にもらいました私」といっているので,この断片でもドゥムジとイナンナは夫婦なんだろう。それなのに何故ゲシュティンアンナはドゥムジを「妻もない」といっているのだろう。死んだ今やこれまでの家族も友人もなくなってしまったようなものだということか,それとも弟をこんな目に合わせたイナンナは妻なんかではない!ということだったり?

ゲシュティンアンナは「妻もない」につづけて「友人もいなければ連れ合いもない」といっているが,妻と連れ合いの違いはなんだろう?ふつう日本語では連れ合いとは配偶者を指すかと思うけど,友人と併記されているということは生涯の親友とかだろうか。ギルガメシュとエンキドゥみたいな。原語ではどうなっているのだろう。

 

このはなしで一番気になるのは冒頭の,イナンナが冥界へ下っていく道中つぎつぎに色々なものを投げ捨てていくところ。

最終的に七つの神力を得ているが,それは同じくウルクのエアンナ神殿他,計七つの神殿を投げ捨てたことによるのだろうか?

 

一番初めに天と大地を投げ,そこから神官の位(注釈によれば髙い身分を示す)二つをなげすてている。

このお話ではイナンナは天と地の女主人となっているので,その天と地を捨てるのは支配領土を捨てることだろうか。

私はこれは,冥界にくだるためには地上,天での高い身分を捨て,一介の神,なんなら人間と変わらないくらいの立場まで自分を低くしなければいけないということなのかなと思ったが,いったいどういう意味なのだろう。少なくとも,七つの神殿を捨てた後に神力を得たのとちがい,こちらは引き換えに得たものはないようなので,同じ捨てたという行為にしても全く別の種類の行為なのかなと思った。