はい


昨日、11/3はSiMの結成記念日でした
たくさんのお祝いの言葉、ありがとうございます。
幸せです。

2004結成なので、8周年ですね。
逆に言うと9年目に入ったとこです。


ということで、この8年の回想記録です。
かなり赤裸々な内容なので、いつか消すかもしれません。笑

今日の記事はクソクソクソ長いのでヒマ過ぎて時間を持て余してる時にでも読んで下さい。

っていうか読まなくてもいいです。笑



---結成当初~2005年---

18歳のとき、湘南の藤沢という田舎町で結成したこのバンド。
当初は『ジャックジョンソンみたいなのやろーぜ』
というコンセプトで、ゆるいサーフロックバンドの予定だった。笑
俺はギターボーカル。ドラムと、ベースと三人組でした。

それまで重ためのグランジバンドをやってた俺は
だんだんむずむずしてきて、
『シャウト入れたい』とか『サビは歪みで』
とか言い出すんですね~

そいでもって、サーフロックよりもレゲエロックな感じになってた。
あの頃は、マジで全員死ねって思ってた。
25歳までには音楽で何かしら結果を残したいって思ってた。
そして、それができなければ自分もロッカーらしく27歳で死ぬと思ってた。




善行Zとか、渋谷CYCLONE、今はなきclub24WESTとかで、
ひたすら一本2~3万円のノルマを払いながらライブをする日々。
お客さんなんていなかったからね。
フロアには誰もいなくて、対バンのメンバーすらどっか行っちゃって、
物販に座ってる人が仕方なくライブ見てるみたいな状況も多々あった。
『俺は誰に向かってライブしてるんだろ?PAと照明さんか?』って。

この時ライブハウスの人にしょっちゅう言われてたのが、前にもブログで書いた
『SiMはかっこいいけど日本じゃ一生売れないね』
という言葉。悔しかった。



---2006年---
20歳のころ、ひょんなことからSONYミュージックの関係者が俺らを見に来ることになって、そのままの流れでSONYのインディーズ事務所と契約。これで全てうまくいくって思った。

でも、田舎から出た事もなければ音楽業界の右も左もわからない俺らは
とりあえずイキがることしかできなかった。

ベースが脱退。SHOW-HATEをギターで迎え、ベースにBUN加入。四人組になる。

当時は誰の言う事も聞かず、ただ作りたい音楽を作って、ライブしてて

当時やってたCATHARSiSってイベント(今度のDVDワンマンのイベントね)
に関わってくれる数少ない仲間たちと楽しい時間を過ごしてた




---2007年---
paint sky blueのデモ音源を出したんだけど
当時主流だったmyspaceで聞いて連絡くれる人がちょいちょい出てきた。

名古屋のMARBLE RECORDSとか、Ball & Chainとか。
俺はすごく嬉しくて、すぐに名古屋でのライブに出させてもらった。
ここから段々、レゲエロック界隈の人たちと知り合うことになる。


MAGMA '07に出演。
ハードコア界隈の先輩たちに囲まれマジビビる。
Sick of it allがかっこよすぎて鼻水垂れそうになる。




---2008年---
Silence iz Mineを作る。
とにかく、やりたいことを何でもやってみた。
で、初めてツアーをしてみる。

案の定、誰も相手にしてくれない。
対バンとか関係者は絶賛してくれたけど、
お客さんの反応はほとんどなかった。
あとで聞いたけど、4ケタも売れてなかったらしい。そりゃそうだ。

『どうしてみんなこの音楽をわかってくれないんだろう?』
って悔しくて、他のバンドのライブや音楽をひたすら研究する毎日。

SUM 41の来日サポートをする。当然どアウェー。泣きそうになる。

京都大作戦に出る。直前でベースのBUN脱退。サポートにDrの友人だった柳原旭が入る。Gtにfumiが入り、俺は完全にGtを弾かなくなる。五人組に。

秋にはcoldrainと出会い、HEY-SMITHとも再会し、やっと他の地方に同世代の仲良い友達ができる。

彼らとライブをする度、いろんな事を話し、吸収していった。

年末にfumiは脱退。再び四人組に。





---2009年---
徐々に音楽性も変わり、会場限定シングルMurderer/Set me freeを出す。
ちょっとずつラウドに、ハードになっていく。
Vibedredとツアーをして、また友達が増える。
ツアー中パンスプに出て、ギターにビッグトラブル発生。昌平、涙の謝罪。笑
マキシマムザホルモンからいきなりMTVライブで対バンに誘われる。マジびびる。
ホルモンのライブを目の当たりにして息を飲んだのを覚えてる。

ここで、ドラムとサポートベースが脱退。
オリジナルメンバーは俺ひとりに、っていうかメンバーが俺とSHOW-HATEだけになる。



焦りながらも前に進むしかなかった俺とSHOW-HATEは、
メンバーがいないにも関わらず60本のツアーを組む。意味不明。

事務所のトップで、もの凄く尊敬していた恩師が亡くなる。
彼の口癖は『お前が何万人もの客の前でロックしてる姿が見てぇんだ』だった。
それを叶えるまで、墓参りには行かないと心に決める。

ドラマーとして現FEEL FLIPのTOSHIを迎えるも、諸事情により一瞬で脱退。

SiM結成当初から対バンしてたバンドのベーシスト、SINを口説きまくる。
事務所のスタッフからGODRiを紹介される。(現UNLIMITSのマネージャー、吉田から)

初めて4人でスタジオに入る。
Murdererを一周演奏した時点で、『こいつらしかいない』と感じたのを覚えてる。

結局、二人が正式メンバーとして加入することになる。
俺とSHOW-HATEは、やっと全員が正式メンバーという状態でバンドをできる喜びでいっぱいになる。


60本のツアーはレコ発でも何でもなく、
ただひたすらライブをしまくるというもの。色んなバンドのツアーサポートをしまくる。
HEY-SMITHのツアーファイナルで、
SHANK、EGG BRAINらと出会う。メロディック界隈とちゃんと対バンをするのは初めてで、衝撃を受ける。1バンド目、EGG BRAINの時にダイバーのくしゃくしゃの笑顔を見て感動して泣く。SHANKのライブで鳥肌が止まらない。俺にとってはハンパじゃない一日だった。

この時はマジで、メロディックとかラウドとかミクスチャーは全く別のシーンだった。対バンなんてありえなかった。

俺や猪狩、Masatoはそれが納得いかなくて何度も話し合った。
『もっと対バンしようぜ』『俺らが何かやらなきゃ』



---2010年---
60本ツアーのファイナルで初めてDEAD POP FESTIVALをasiaで開催。
当時は謎ともいえる面子でライブ。俺らの力不足もあり、ソールドはしなかった。



前途のSHANKとの出会いで2ビートに目覚めた俺はANTHEMを作る。
ちなみにサビは新潟のライブ後打ち上げに向かう途中にいきなり思いついた。

ANTHEMをリリースして、ツアー。
そのしょっぱなで、SHOW-HATEが倒れる。脳梗塞だった。
『メンバーが一人死ぬかもしれない』
俺らにはよくわからなかった。寝耳に水で、実感がなさ過ぎて。

とりあえずツアーキャンセルするが、どうしたらいいかわからない。
でもSHOW-HATEが回復することを信じ、サポートギターを探す。
全国でひたすら頭を下げまくった。けど、誰も怒る人はいなかった。本当に感謝。

現Wrong CityのGt、ONO-SHiTをサポートで迎える。

SHOW-HATEが脅威の回復を見せ、バンドに戻って来る。
ラスベガスのイベントで神戸VARIT、京都大作戦2010と連チャン。
ここからしばらく五人体制でライブをする。


SHOW-HATEの体力を考慮しライブを減らし、楽曲制作をする。
この時、話し合いを重ね『生きるということ』をテーマにした三部作のリリースを決意。
命の大切さを、無事に朝を迎えられる有り難みを、
音楽を続けられるということの素晴らしさを再確認する。

JACK. Bを制作し、LIVING IN PAiNをリリース。
俺は前髪をおろして(モヒカンだけど)アイメイクを始め、初めてのPVも作る。


PVを出したことでほんのちょっとだけ反応が変わる。自信がわいてくる。


HEY-SMITHのHAZIKETEMAZAREが初開催。
何としてでもパンチを見せなきゃ、と2階からダイブする。


---2011年---
DEAD POP FESTiVALを開催。
当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったラスベガスのおかげもあり、asia即完。


いろいろあってONO-SHiTが脱退。正式メンバーとして迎える話しをするタイミングを探していたところだったので、残念だった。



三部作の2作目A SONG OF HOPEの発売直前で、
事務所にクビ&リリースとりやめを宣告される。
お互いの希望が合わなかったのが原因ではあるけど、
急過ぎ&リリースとりやめという強攻策をとられブチキレる。
三部作のために作っていた楽曲のほとんどが権利上の問題で使用禁止に。
更にブチギレ。誰も信じられなくなる。
ちなみにとある楽曲を音源化できない理由でもある。



途方に暮れる俺らを、gil soundworksが拾ってくれる。
これが転機になる。

Boobie Trapと2マンを予定していた3/11、大地震が起こる。
メンバーが我が家に集合する直前で、とりあえずライブハウスに向かうが交通は大混乱、開催延期を余儀なくされる。

大地震当初は政府と東電の発表を信じるしかなかったため、
東日本でのライブ数本をキャンセル。
coldrainの北海道ツアーから考えを改め、ライブ再開。

この体験から大幅に自分のひとりよがりな歌詞の内容を見つめ直し、楽曲制作を一から再開。
色々なストレスも相まってトランス状態に入った俺とSiMは短期間で20曲弱を制作。


アルバム制作中、Twitter上で俺と相互フォロー状態の子たちが
違法ダウンロードなどを当り前のように公言しているのをよく目にするようになる。
ある日堪忍袋の緒がキレ『お前ら死ね、マジで死ね』と発言。
軽く炎上し、発言内容を反省。
CDという媒体に関しての考えをブログにまとめる。
『フジロックの~』という記事。


25歳を迎え、前途の通り一度自分の音楽人生を振り返る。
震災の影響ももちろんあり、一日でも長く生き、音楽を作り続けようと決心。
27歳で死ぬという選択肢を脳内から排除する。


Boobie Trapとの2マン振替公演を行う。
ソールドだったのにハンパじゃない数のメール予約者がバックレ、ブチギレる。


SEEDS OF HOPEを完成させる。
前途のツイッター事件の影響から、
"FILE SHARING IS KILLING MUSIC"
と盤面に表記していくことを決める。


KiLLiNG MEのPVを発表。
ここから明らかに周囲の反応が変わる。各方面に友達が増える。

ツアー初日にO-WESTワンマン。
ギリギリまでチケットは残っていたものの、なんとかソールド。

自分たちだけを観に400人が集まったということに実感がわかないまま、ワンマン終了。

ツアーも各地でのお客さんの数にびびる。
『なんでみんな俺らの曲知ってるの?汗』
っていうのが率直な感想。
それまでは、基本アウェーで、俺らの曲なんて誰も知らないって状態でライブするのが当り前だったから。
CDの売り上げを聞いて更にビビる。
(この時点で前作LIVING IN PAiNは2000枚?しか売れてなかった)




そして、今年。

DEAD POP FESTiVAL 2012をやって、
LiFE and DEATHをリリースして、

念願だったサマソニにも出させてもらいました。
他にも色んな夏フェスを初体験しました。

そして初めてのDVD/書籍DUSK and DAWNを出します。






まぁ、色々あった8年間でした。本当に。
ここには書いてない他のタイミングでも、何度も解散の危機はあった。
全員敵だと思っていたガキの頃から、
仲間やお客さんと接するうちに徐々に人間性が変わり、
人を好きになり始めた矢先に再び大人たちを大嫌いになり、
それでも見捨てなかった人たちに感謝し、
新たに出会ったお客さんたちと今後何をしようって考える日々。







人生は、長いです。

でも、明日死ぬかもしれません。

そこに天国がある確証はありません。

だから、立ち止まってる時間なんて俺には必要ない。






一昨日、Suicide Silenceのボーカルが事故で亡くなりました。
デスコアっていうのかな?俺ああいうのあんまり聞かないから詳しくないけど、
確実にビッグバンドになりつつあったバンド。
何が起こるか、マジでわかんない。
精一杯生きなきゃ。



来年の9周年、そして再来年は10周年!
どこまでもいくぜー!!!!