こんにちは!ソウル・コーチ YUKOです(^^)
久しぶりの奇跡講座ネタです・・・
最近ふと思うことがあって。
類は友を呼ぶというか、
わたしが現在親しくしている方の中には
奇跡講座・奇跡のコース・ACIMを学んでいたり
関連する本(マニュアル、テキスト、ワークブック等)を読んでいたりする方が多いです。
その概念に基づいたセラピーやカウンセリングをしている仲間もいます。
そういう方たちと、接しているとき。
例えば、「今日なに食べる?」とか、「どの映画を観ようか?」なんていう場面で。
結構よく「ある意味都合の良い言葉」を口にされます。。。
それは
「聖霊におまかせ」
っていう表現です。
講座や勉強会を開催して、奇跡講座を広めている方でさえ、そういう表現を使います。
耳触りが良いし、なんとなく何かを手放してるようでスピリチュアルっぽいし(笑)
使いたくなっちゃう気持ちはわからないでもありません。
人によっては「くよくよ思い悩まない、なるようになる!」といった意味で使う方もいるかもしれません。
それも、表面上はポジティブに見えますが、実はそこにも怖れが隠れています。
ほんとうは自分が決めているのに、聖霊が決めたようにすり替える考え方だからです。
だけどそれらは、奇跡講座の本来の教えとは趣旨が違う言葉だと思います。
というのは、「聖霊」は、「導いたり」「あなたのかわりに決断してくれたり」しないから。
つまり、
「聖霊はこの世界でのあなたの、あるいはあなたの周囲の行動に関与しない」
のです。
聖霊が関与するのは、聖霊とともに赦しを行い、
間違ってしまった選択を神・聖霊の目で見てあるべき選択をし直すとき。
心がざわついている状態を、赦しを通じて、おだやかで平穏な状態にするときだけです。
JACIMサイト Q&A 「世界における聖霊のみちびき」の質問へのアンサーにも
そのように書かれています。
学んでいる人たちはそのことを知ってるはずなのに、どうしてそんな表現をするのか?
答えはただひとつです。
「怖れ」
特に「決断することへの怖れ」です。
自分の決断が、もし間違っていたら・・・
自分の決断が、相手を不愉快にしてしまったら・・・
自分の決断で、相手に迷惑をかけたくないから・・・
表面上は、相手を思いやるというオブラートに包まれていますが、
実は「やると決める」あるいは「断る」のどちらも「怖れ」のためにできないので
「聖霊にお任せ・・・」
って言うんですね(^^)
では、わたしはそういう言葉を言われた時にどうするかって?
そうですね~。
表面上は、黙って微笑むだけで何もしません。
だって、怖れる子羊を責めても仕方ないですよね。
でも心の中では、その言葉を使った相手のことも
その相手を見ている自分のことも、「赦し」ます。
そういうときこそ、めっちゃ素晴らしい「赦し」のチャンスなんですよ~(^^)
怖れて決断できない相手は、わたし自身の投影だから。
決断できないあなたも、それを見てちょっとイラっとしたわたしも(笑)
誰も悪くない。
だって、ただ選択を間違っただけだから。
「あぁ、わたしの中に、こういうことを怖れる気持ちがあるんだな。
そのことを投影として見せてくれてありがとう。
聖霊、ホーリースピリット、わたしにはもう、こういう怖れは必要ありません。
『怖れる』ことを選択したわたしの間違いを訂正し、
聖霊の目で見て正しい選択をし直したいです。」
そして、ここでやっと聖霊が間違いを訂正し、心を平穏にするために関与してくれるのです。
ま、言葉遊びとして受け流すスキルも身に付けなくては(笑)
今日もありがとう!
See you!!