おおもとはといえば。
という言葉がよく使われる。
僕はこの言葉があまり好きじゃない。
福島のことを例にして言うと。
地震があった。
津波が起きた。
原発が損傷した。
様々な悲惨な状況を産み出した。
原発事故に対して、「おおもとはと言えば原発が必要なほどの電気を求めてきた首都圏が悪い」だとかマスコミが騒ぐのは間違っている。
そりゃ、"おおもとはといえば"そうでしょうよ。国民の電気需要があるからに決まってるじゃないか。
でも、その"おおもと"が必ず"原発事故"を導くだなんてことはない。
必要十分条件ではない。
"おおもと"から結果へのプロセスの中に介在する沢山の選択する機会の中で、態々その道を選んで進めてきた誰かがいるわけで。
それらの責任追求は何処へ消えたのだろうか。
"おおもとはと言えば"という言葉で、責任転嫁をしているとしか思えない。
"おおもと"に責任がないとは言わない。
だけど、その"おおもと"をそれがその結果の"おおもと"だと決めつけて責任を押し付けている人たちがいることを忘れてはいけない。
今回の例で言えば、"おおもと"は国民でなくて原発開発者でも良いわけで、物理学者でも良いわけで、その人たちを育てた人々でも良いわけで、「意図的」に選ばれた"おおもと"であることを取り違えてはならない。
つまり、"おおもと"の解決だけではどうにもならない結果と言うものがあるわけで。
何を反省して何を改善すべきなのか、細かく考え直す必要がありますよねってこと。