おじさんは実は脳梗塞で2週間ほど入院する羽目になった。昔、もっと酷い症状になり一度入院したことがあり、自己診断で、もっと軽く考えていたのだが、勝手に立ってトイレに行くのも禁止された。
おまけに心臓の検査をしたところ、弁に異常があるとかで、弁の以上が血栓をまき散らした可能性もあるとかで、さらに精密な検査をしましょうと言われてしまった。
話は変わるが、最初、2人部屋の奥に入院し、手前の人は3日ほどで退院され、以後しばらく空きベッドになっていた。そして次に入院されたのが筋萎縮性側索硬化症(ALS)と呼ばれる病を患っておられる方であった。
その患者さんーー仮にAさんとしようーーは、お話好きで、病棟の看護師さんの誰もが知っている〝有名人〟であった。
後で明らかになるのだが、Aさんは月の内10日をこの病院で過ごし、残り二十日を受入施設で過ごすという生活を5年間送ってこられたらしく、その都度、入院する病室や棟や階が変わり、知り合いも多くなったのだという説明であった。
もちろんそこにはAさんが持つ人間性が大きく係わっているのは言うまでもない。そして病院の看護師さんというか、看護師という職業人がもつ持ち前のやさしさや献身性が深く関わっているのは言を俟たない。
「わしは若い頃から悪いことばっかりしてきたからな、その罰が当たったんや、と言う者もおる」Aさんははじめそんな言い方で自分を卑下されていたが、聞けば香具師(やし)をされていたらしく、もっと人間的ではない『オレオレ詐欺』のような〝仕事〟をしている人間や、集団ストーカーの加害者のような人間もいて、そんな屑連中に比べるのも失礼だけれど、そんな比較対象の事は口にはしないが、何等恥じることのない立派なお仕事ですと正直に申し上げた。
Aさんは70を越えておられるらしく、この病院はこれまでALSの患者を受け入れてきたそうで、病院で知り合った50代の患者は、みんな死んでしまったとのことであった。
今打って貰っている点滴がよく効いているらしく、それに年齢のせいか進行が遅くなっているような気がするとも述懐された。若い人の癌は進行が早いと耳にするが、その反対の現象が起きても不思議ではない。しかし、良くなるという事はAさんも考えておられず、こんな調子で死ねたらと今は思っているとも言われた。
そしてこれは耳に入って来てしまったので、部屋から病棟のロビーのような場所へ出て行ったのだが、今後の人口呼吸器を着けるタイミングについて主治医の先生と打ち合わせされるようだった。
いずれしなければならない話だろうが、おむつの交換中とか、検温中のさりげない会話の中などで、看護師さんに聞いておられたので、自然に耳に入ってきて知識を得たのだが、色々と方法があるようで、人工呼吸器に繋がれっぱなしになるということでもなさそうで、Aさんのために良かったと安堵した。
やはりお元気そうだったが、今は手も足も動かせず、有名なところでは車椅子の物理学者、スティーブン・ホーキング博士のように徐々に出来ることが出来なくなり、やがて死を迎えることになるのは必定である。
これは末期がんとは違う意味で、長く人を死と向かい合わせるある種の拷問であろう。おじさんが犯罪の中で最も卑劣な犯罪と考えている『集団ストーカー』の事が一瞬、頭をよぎった。
ちょうどAさんの退院の日、おじさんも突如、退院してもよいとお許しが出て、奇しくも同じ日に退院することになった。おじさんは10時30分、Aさんは11時ということで、Aさんが落ち着いて最後の点滴を受けておられる間、こちらはばたばたとご迷惑をかけながら出たり入ったりして準備を整えた。
こちらは薬を貰ったり、入院費用の支払いに戸惑っている間に病院のロビーで退院されるAさんに声を掛けられた。こちらは段取りの悪さに加え、会計に出す書類を所定の場所に入れていなかったらしく、まだ少し時間がかかりそうな段階で、Aさんと迎えに来られた2人の娘さんをお見送りする格好になってしまった。
おじさんは掛ける言葉もなく、『お元気で。お大事に』などと通り一遍の気の利かない言葉を掛けるだけに終わった。『また縁があったら逢うこともあるやろう』と、Aさんは人生の先輩らしく達観した言葉をかけてくださった。
入院するといろいろな体験をする。おじさんの病棟はおじさんと同じ脳外科の患者が入院する棟で、夜中、看護師を呼ぶ回数が半端ではなく、のべつ幕なしという感じで呼び出し音が響く。3~4人、遠くで野獣の咆哮のような奇声を発する人が居るかと思えば、昼間、常に食事はまだかと憤る人も居る。
突然、常にお怒りの人が看護師さんに宥められている場面があり、病室で聞いていると、わしの入院費はどうなっているのかと心配されてるのを、娘さんから貰っているよ、と看護師が答え、費用は足りてるのかどうかと心配になられたのだろう、保健で賄えていると聞いてるよ、と看護師が答えるとしばらく間があき、自分の空腹のことを口にし出したので、たまたま検温に来ていた看護師に、「調子が戻ってきたね」と笑うと、94才になるということであった。
様々な人間模様が展開される入院病棟で、喚かれ怒鳴られながら応対する看護師という人々に敬意を抱いた瞬間であった。
最後にAさんの最後に間に合うように、画期的な薬が開発されることを祈りながら筆を置こう。
by 考葦(-.-)y-…