日本の野党は今懸命に閣僚のアラを捜しているのだろう。言葉狩りは所謂左翼の得意芸で、世が左翼体制になったら、自分たちはそんな言葉狩りはされることがないと思っている。過去の例と同じく、むしろ、思想的に異なる相手に対して言う言葉であって、共産革命が成就した暁には、あらゆる自由をもっと厳しく制限することになるだろうと分かっている。ちょうど今の香港のように。

 

 

 一国家二体制と謳っているものの、香港へは共産党支配が及んでいないことに習近平自身が苛ついているが見える。小生には天安門事件の再来が起きる予感しかしない。

 

 

 だから、自由主義社会にあっては、自分(共産主義者)たちの存在を認める社会を馬鹿だと見下しながら、敵、即ち保守主義者・自由主義者に対してだけ言葉を狩るのである。それに気付かない朝日の読者層を味方に付けて。

 

 

 ポリティカル・コレクトネス【political correctness】という言葉をご存じだと思うが、公平の行き過ぎで不自由になり、ついでに不幸になる現象である。文句が言いにくい言葉を取り上げ禁止し、一歩ずつ一歩ずつ自由な範囲を狭めていく。アメリカでそれを感じた人がいて、この用語が生まれた。トランプが当選した背景には、アメリカの白人層の息苦しさがあると思う。

 

 

 自由主義者は言葉の言い換えを強要されるのを嫌う。指摘する側は言われたら傷つくであろうと忖度して言い換えを求めるのである。目暗(めくら)とかびっことかと書きながら、変換が思うに任せないことに気づく。もしやIMEが変換できない仕様にしているのかと遅ればせながら気付く

 

 

 因みに小生のIMEはATOKだから、プレインストールしてあるMS-IMEに変えるも、流石アメリカ製、より忖度して差別用語になる恐れのあるものを初めから変換できないようにしているようだ。

 

 

 こういう忖度は要らない。言葉はそれ自体は何の罪もない。意味が生まれるのは読んだ側の脳である。例えば、跛行(はこう)とは波を打つように歩く様子、すなわちびっこを引くことをいうのだが、「彼は戦争で足を撃たれ、以来、軽く跛行(びっこ)を引くようになった」と書くのは足が不自由な人全員への差別なのであろうか。

 

 

 少なくとも書いた本人はまったく差別意識はない。また批難の理由に、より自由主義者の自由を狭める効果を狙って、〇〇を連想させるからという言い方がある。偏った考えを、偏頗な考えのように使うが、偏頗は跛行を連想させるし、僻事(ひがごと)も僻目(ひがめ)を連想させるし、どんどん枠は狭められていく。斜視は辛うじてセーフのようだが、ロンパリはダメなんだろうね。

 

 

 嗤うのは、言っている野党の構成議員が、過去に香典を秘書が持って葬儀に行っている例があるのに、他党の議員を責める。これを小生は蓮舫現象と呼んでいる。登場人物蓮舫議員一人だけで、過去に厳しく追及した事柄を同じ蓮舫が責めるというブーメラン現象のYouTube動画がある。

 

 

 いま萩生田議員の身の丈に合ったという言葉に集中砲火が為されているが、批難の理由が金持ちは何度でも受けられて練習が出来るから有利だというものがあり、テレビのコメンテーターはさもありなんと頷いている図は奇妙で薄気味悪い。

 

 

 北海道なら札幌まで出なければならない。その通りだろう。交通費・宿泊費等々がかかる。そりゃそうだろう。それを何度でも出せる家庭と出せない家庭がある。過去にもあったし、これからもあるだろう。

 

 

 ただ一定の人数がいれば受験地を移して貰えるのか。需要と供給の関係で何とでもなる気がするが、事前にTOEFLやTOEICと、そのようなことを打ち合わせる人間もいないのだろうか。

 

 

 今ゆっくり記事を作成していたら、首相が招待する花見の話が出ていて、招待基準が不明確だと立憲民主党などが言い出したらしい。新しい安倍叩きの材料の出現に朝日新聞はお喜びのようである。よって、朝日新聞の購読者のお喜びの時間がもう少し続くと思われる。

 

   

by 考葦(-.-)y-~~~