リベラルとは思想的にどういう立場を言うのだろう。思想や政治に関心をもったり、政治的発言をするとなると、いずれ避けては通れない言葉ではあるが、実のところ定かには分からないという人が多いのではないだろうか。ネットで調べてみても、短い文章で解説してあるものがない。そういうものだと言われしまえばそれまでだが、何処かでしっかりと自分なりの定義を作っておくことは必要だろう。


 幸か不幸かおじさんの青春時代は、まだ中核や革マルといった過激派とよばれる極左組織が衰退しつつも残っていたし、その構成員は勿論、それにシンパシーを覚える連中も残っていた時代である。喫茶店で陣営に引き込もうとオルグする場面に出くわしたこともあるし、居酒屋で革命について声高に議論する声が聞こえることもあった。当時、おじさんは別に彼らを色眼鏡でみることもないかわりに、反対の保守的、右翼的なものに共感を覚えることもなく、所謂ノンポリと蔑まれるタイプに属していた。


 ぶっちゃけて言えば、今でこそ歳を重ねた雑学的知識の多さから、ニュース解説などという偉そうなブログを管理しているけれども、あの頃はそんなダサい思想的なものより女の子にもてる方が上だと考えている、ごくありふれた人間の一人に過ぎなかった。


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 当時は、知識を蓄えるには読書以外にない時代だったから、せっせと読書に勤しんでいた。メインは推理小説で、月刊誌は文藝春秋と中央公論を不定期で読んでいた。意味が分からない言葉は辞書で調べるしかないし、辞書の短い説明だけでは理解できないことが多かったのを覚えている。


 だから、疑問の解決にゆったりとした時間をかけていた。そんな折りは疑問を潜在意識に叩き込んでおき、本屋や図書館で機会があれば調べることを思い出せるようにしていたものだ。もしかしたら、今のように即座にネットで情報を得られていれば、天才になっていただろうか、それとも手軽に手に入る情報なら、特に頭に蓄積しておく必要はないと考えただろうか。



 当時から右翼と左翼は比較的分かりやすかった。フランス革命時に議長席から見て、従来の体制を保守しようとする議員が右側に座り、王政を廃して自由で平等な国を作ろうという勢力が左側に座ったことに由来する。保守的な人を右翼、革新的な人を左翼と言えばいいだけのことである。しかし、ではリベラルは? となるととたんに曖昧模糊となってくる。右翼でも左翼でもないと言うことは、両者の中央の辺りにいる人たちのことだろうか。


 青年のおじさんは、こんな疑問からスタートした。当時も的確に回答してくれる書物はなかった。もちろん辞書は真っ先に調べた。Liberalism(自由主義)、a liberal(自由主義者)……そんなことは即座に分かるけれども、中央公論の論者などがリベラルというとき、どうもおじさんの理解と微妙に違った定義で使っている感じがしたので困惑したのだ。


 その疑問は解決されずにもやもやとした感情と共に数年持ち続け、ようやくそれを払拭してくれたのが、ノーベル経済学者のハイエクであった。その書物と当該箇所を探すのが面倒なので検索をしたところ、うまいぐあいに引用されている『国民が知らない反日の実態』というHPがあったので、感謝の意を心に秘めつつ以下に孫引きさせていただく。


 このような社会主義の主張がもっともらしく聞えるようにするために、「自由」という言葉の意味を社会主義者たちが極めて巧みに変更させてしまった事実は、重要極まりない問題であって、我々はこの点を精査しなければならない。
 かって政治的自由を主張した偉大な先人達にとっては、 自由 という言葉は 圧政からの自由 、つまり どんな恣意的な圧力からもあらゆる個人が自由でなければならないこと を意味していたのであり、従属を強いられている権力者たちの命令に従うことしか許されない束縛から、すべての個人を解き放つことを意味していた。 ところが、社会主義が主張するようになった「 新しい自由 」は(客観的)必然性という言葉で表現されるような、とても逃れえないと思われてきた全ての障害から人々を自由にし、全ての人間の選択の範囲をどんな例外も無く制限してきた環境的な諸条件による制約からも、人々を解放することを約束するものであった。 つまり、人々が真に自由になるためには、それに先立って「 物質的欠乏という圧制 」が 転覆 されなければならず、「経済システムがもたらす制約」が大幅に撤去されねばならない、とこの「新しい自由」は主張した。
(中略)
 つまりは、「新しい自由」への要求とは、 富の平等な分配 という古くからある要求の、ひとつの言い換えに過ぎなかった。ところが、その主張を「新しい自由」と命名することによって、 社会主義者たち は、 自由主義者 が 使用 する「 自由 」という言葉を 自分達の言葉として手に入れ 、これを最大限に自分たちの目的のために利用してきた。 この言葉は二つのグループ間で全く異なった意味で使われているというのに、この決定的な違いに気付く人々はほとんどいなかったし、ましてこの二つの異なる自由を理論的に本当に結びつけることが出来るかを、真剣に考えようとした人も皆無に近かった。
(中略)
 彼らが「 自由への道 」だと約束したことが、実は「 隷属への大いなる道 」でしかなかったと実証された時の悲劇は、より深刻なものとなるのを避けられない。
(アンダーライン 筆者)


 どうだい? ハイエク先生が気付いていない人が多いと指摘する、この詐術のような定義の変更に20代前半の若いおじさんは気付いてしまった。だから以後、リベラルと言うときは、古典的な本来の意味での自由をめざす自由主義者ではなく、社会主義的用法を用いる自由主義者の事を指すようになったのである。まあノーベル賞を取ってくれたお陰で、ハイエクという学者の存在を知る事が出来たという僥倖があったに過ぎないが。


 しかし、何で読んだのか記憶が曖昧である。当時、まだ何の偏見も無く様々な人の書いた物を読んでいたので何処から仕入れた知識か定かではない。ただ、それほどハイエクの翻訳が行われていたとも思えず、高価な本は絶対に買えなかった事は自信を持って言えるので、図書館か書店の立ち読みだった公算が大きい。


 さて、リベラルと言えば、昔、『諸君!』で評論家の宮崎哲弥氏が日本のオピニオンリーダーを発表された意見を基に、XYのグラフに落とし込む試みをしたことがあった。X軸、Y軸が何だったかは忘れたが、自分自身もしっかりプロットしてあった事だけは覚えている。

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 この試みは日本ではなく、もともとアメリカで発明されたものである。1問4択程度の多数の質問に答え、その回答に点数を割り当て、導き出した点数をグラフにプロットする何とかというプログラムがあった。こういうプログラムを何と言ったか……、情けない事に出てこない。(T_T)


 ……数日後、名前判明。ポリティカル・コンパス(political compass)でした。一体、この記事を書くのに何日かかっているんだ……。


 興味のある方は、こちらで自分の立ち位置を検証されたらいい。

  http://sakidatsumono.ifdef.jp/draft3.html


 ちなみにおじさんの結果は保守右派だそうだ。



 リベラルと自認する人々の特徴は、言論の自由という言葉をよく口にするくせに、保守系の誰かが例えば、新聞にTBSテレビのサンデーモーニングは報道の公平性が保たれていない、という意見広告を出すと、TBSお好みの知識人が即座に言論の自由を封殺するつもりかと反応なさる。つまり、自分たちの意見は言論の自由により保障されている事は理解できても、立場を異にする人々にも同様の自由があることにお気づきでないのである。まさか放送法からも自由であるとお思いではないだろうな。


 リベラルというものが、自由主義者使用する『自由』という言葉を使用したいが為に、社会主義者が定義を微妙に変え、結局、富の公平な分配の遠回しな言い換えに過ぎなかったというハイエクの視点は今も当たっているというより、見事に的中して既に幾つもの共産主義国家や社会主義国家が消滅している。


 最近、ハイエクを取り上げた論文を書かれたのは、渡部昇一氏であるが、氏は相当高くハイエクを評価され、今後の経済はハイエク経済学を用いるべきだと書かれていたように思う。


 日本に於けるリベラルは相当怪しい人士であると考えるべきである。憲法についてはバイブルの如く一字一句変更させないという『超保守』であり、彼らがいう民主主義も本来の意味とは異なっている事に気をつけなければならない。


 TBSやテレビ朝日で重宝されるコメンテーターは、かつての左翼の顔を隠しリベラルを装う。耳に快い言葉を並べ、いかにも正論を述べているように写るので、心優しい市民はつい信じてしまう。こんなやさしく話す人が左翼の訳がないとか、左翼だとしても左翼も悪くないのではなんてね。


 左翼の欺瞞性は、あまり色の付いていない若い時代のおじさんは気付いてしまった。大体、社会主義国や共産主義国の国民が幸せには見えなかった。それと例外なく粛正と称して数百万から数千万単位の自国民を殺戮している。如何なる主義主張を信奉すると言えども、これだけ人間を殺害できる思想というのはとてもまともなものとは言えない。それに我が国の共産主義者達は一言も言及しない。弁明も含めて一切聞いたことがない。


 気付かない振りをしているか、国民を一段下に見て、気付かないだろうと軽んじているかのどちちらかであろう。だから、彼らはリベラルの衣を被ることにしたのである。


 きちんと学びたい人は上で引用させて貰った『国民が知らない反日の実態』で学ぶ方がいいだろう。


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by 考葦(-.-)y-~~~