イスラム教徒の女性は差別されているのか。
昨年、象徴的な出来事があった。タリバンによる女子教育への妨害に抗議したパキスタンのマララ・ユサフザイさんは銃撃され、九死に一生を得た。そして昨年2014年にノーベル平和賞を受賞した。
タリバンというイスラム原理主義過激団体だから、イスラム国のISILとは違う。また、過激武装集団は本当のイスラム教ではない、イスラム教はもっと穏やかな宗教であると、イスラム教徒や研究家は述べる。しかし、現に世界を見渡しても、そういう過激な武装テロ集団はイスラム系しかいない。よって、そういうものを生みやすい、生む土壌がある宗教だということは否定できまい。
『神との対話』シリーズで有名なニール・ドナルド・ウォルシュは現代の『預言者』である。神は恐ろしく多くの言葉を費やしてウォルシュの質問に答えている。ただウォルシュはその言葉を書物という媒体により世界に広めた。本人は預言者を気取ることもないし、新しく宗教を打ち立てるでもない。ここに近代の神と個人の関わり方の一例が見える。
同書の中にウォルシュ自身が一つの疑問を投げかけている。記憶であるため言葉は不正確であるが、概ねこういう趣旨の質問であった。どうして神はわざわざ自分に似せて(魂を分け)人を創ったのか、と。その答えは、自分は絶対的な存在故に相対的な経験をしたかったのだ、というものであった。そしてもう一つ印象に残っているのは、自分(神)も成長するという言葉である。
この言葉に出会い、おじさんは、このウォルシュが対峙している神が本物だと確信したのである。真理は固定され、一人の予言者の聞いた言葉しか本物ではない、というのが一神教の特徴である。だが、神すらも成長・進化するのであれば、神の言葉である預言も変化(進化)して当然である。
だとすると、ある預言者がある時期に聞いた言葉は、その地域のその時代の人々が理解しやすいように話された公算が大なのだ。だからその宗教が古びたとか、使い物にならないと言っているのではない。大宗教はそこから進化・発展させる必要があるのではないかと思うのである。
仏教を例に取れば、ブッタの前にはヒンズー教があった。既に輪廻という土壌が形成されている上に、この世とあの世の仕組を紐解き、現界は夢幻の世界であり、この輪廻転生の輪から離れることが悟りだと説いたのである。
しかし、インドで仏教は流行らず、ヒンズー教が生き残っている。これこそ進化ではないかと思う。固定された教義、固定された所作――これらから抜きん出たところに新たな宗教・宗派が生まれる。しかし、従来の元となった宗教もそこに根強く存在し続ける。
神との向き合い方に決まりがある訳ではない。女子が学問を追及し、その課程で神と触れあうという方法も否定すべきではない。女性を男のための道具であり、子を為し育てるのが役目だと書いたものを読んだことがあるけれども、子を産まないことを決め、学問で身を立てる女性を許容しない宗教は、近代から未来の宗教とは言えないだろう。
イスラム教が武力やテロを用いず存続するためには、今後、いかに穏健で柔軟に教義を解釈するかに懸かっていると言えよう。
終