実話怪談 Ⅰ へ



 これを理路整然と説明する宗教はない。哲学は霊というものを認めていないし、科学も認めてはいない。おじさんの知る限り、少し捻った物言いではあるが、有名な浄土真宗の宗祖親鸞だけが悪人正機説を唱え、悪人が往生することを示唆している。


 『善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』というものである。親鸞のあと、宗派のあまたの俊秀によって様々に解釈され深化し、おじさんが薄く理解しているような意味とは大きく異なっている可能性はあるが、善人が往生するのだから、悪人はなおさらである、と字面どおりの解釈をしておこう。


 さらに言えば、『南無阿弥陀仏』と念仏を一心に唱えさえすれば、誰でも阿弥陀如来の力で西方浄土へ行けるというのが肝の宗教だと浅くおじさんは理解しているが、それは悪人でも同様である、いや、罪深き業を背負った悪人が行けなくて誰が行けるというのか、というニュアンスであるとおじさんは解釈した。


 もっと詳しくお知りになりたい方は、浄土真宗の坊さんに聞いて貰う方がいい。


 その伝でいうと、確かに 殺人者の方は心の構造がそうさせるのか、死んで幽界に囚われることなく霊界に進んでいる。いかにも理不尽極まりないが、魂や霊界の話にはちょくちょくこう いう不合理・理不尽が見受けられる。これを見ると、はたして多くの宗教が言っているところの、現世で悪を為した人間に対する罰というものが、あの世に存在するのかどうかという疑 問がわく。


 善といい悪というが、何を基準にいうのかということである。光と闇のようにどちらがいいということではなく、光があるから闇があり、闇があるから光がある。法律ですら、この時代のこの国で何かが悪とされているに過ぎないと考える相対的な立場に立てば、善悪の境は曖昧なものとなろう。


 かつては哲学者といえども宗教の軛(くびき)から逃れることができず、おじさんの大好きなニーチェが『善悪の彼岸』で〝おまえらキリストから離れてものを考えな〟と言っているのだ。


 おっと、話が痴呆老人よろしく徘徊しそうになった。おじさんの文章も徘徊しがちで、同じ所を行っては戻り、行っては戻りするのはまだいい方で、時に帰り道を見失い公園や橋の下で野宿することもある。


 さて、殺人者に迷って地縛霊になるような例が皆無に近く、交通事故で死んだような霊が、事故現場で地縛霊となって、次々と通る人間を巻き込み、死亡させたり、大怪我をさせていると推測させる話は枚挙に暇がないくらい収録されている。この現実をどう考えればいいのか。


続く