ゴルフは究極の不平等ゲームだと、ゴルフ解説者の戸張捷氏は言う。


 特に全英オープンがそうだが、1日に四季があると言われるほど、時間帯によって環境が目まぐるしく変化するのだ。午前と午後、それだけで5、6打は平気で変わる。1打――1パットが数10万、数百万の差を生むプロの世界にあって、大変な事だと素人は思うが、それに文句をいう選手は誰もいない。


 そういうゲームだと言うのは簡単だが、なかなか腹の底から思うのは難しい。


 では、この現実社会ではどうか。平等が大好きな人は多い。左翼系の人はもともとのスタートが平等に向かう社会を作り出すためだったのだから当然だが、自由主義を標榜する人の中にも平等をしきりに主張する人がいるのは如何なものか。


 今更、講釈を垂れるつもりはないが、自由と平等は相容れない概念だよ。自由主義社会にあって極力、平等に配慮するという今の日本などは、昔の社会主義者が夢見ていた社会を実現してしまっているのではないか、と思うことがある。


 あるワイドショーの特集で、生活保護費の減額をテーマにしていたが、ある受給者が学校へやれないと言うのでよくよく聞いたら、子供二人を大学に通わせ、もう一人は専門学校へ行っている、支給額を減らされたら困るという話だった。


 人それぞれだろうが、早く働いて生活保護から抜け出せよ、とおじさんは言いたくなった。


 制度があるから申請するのは分かる。しかし、夫婦二人に子供二人でもその年代の頃は大変だ。義務教育だけ受けさせればいいとは言わないが、少しは感謝しろ。


 そんな一家を取り上げる番組関係者のセンスも疑う。


 人は生まれ落ちる瞬間から究極の不平等である。それを社会が平等へと向うべく制度でカバーしているのが真実の姿だろう。平等も自由もその国の国民が勝ち取ったものだ。


 はっきり言って、日本に生まれたことそれ自体が幸運の一つだと感謝しなければならないだろう。


 聞けば、支給日には職員に相当、悪態をつく人がいるそうな。まるで物事が解ってない。それでいて選挙では与党ではなく、口を利いてくれた野党の何何党に投票するのだろう。


 平等へ舵を切りすぎたきらいがあるなら、自由へ舵を戻せばどうだろう。新たな気付きがあるかも知れないよ。