それじゃ、神と怪に遭遇した人との関係は? ということになろうかと思うが、経験することは、すべて自分に責任があるという立場に立てば、今生の記憶か、はたまた過去世の記憶が招き寄せていることになる。
怪をもたらすものが浮遊霊なのか、地縛霊なのか、それとも物の怪に分類されるものなのかは知らないが、確かに【死んでも生きている】なにものかを考えなければ、説明がつかない。
換言すれば、怪談は霊魂の存在を実証しているとも言えるわけだ。つまり死後の一形態に人は遭遇していると見ることもできる。
一口に怪談とくくってしまったが、中には生きている人間の怖さを集めたものもある。
人はどこまで冷酷になれるのか、どこまで壊れてしまうのかを知る意味でも、読んでおくと良いと思う。
ほかにも、話の中によく出てくるのが神社である。それとお札(ふだ)の事もそれ以上に出てくる。
物語の中では、結構な威力を持ち、怪の出現を抑制している場面がちょくちょく見られる。
また、鳥居にも力があり、「見える」人が見ると、取り憑いた霊などがまるで見えない板でもあるように、跳ね返される様子を描写したものもある。
関係者には失礼ながら、おじさんは、これまで神道というものを、うっすらと透明に近い色を帯びたほぼ有名無実のものと位置づけていた。そしてその期間が相当長くあった。
近頃、日月神事を読みながら、神道にも大きな威力があると思い始めてはいたものの、件の怪談からその思いをより強くした。
死んだ後に、地獄が待っているとする説は、多くの宗教で見られるが、斉藤一人さんなどは、地獄へ行くとはっきり書いている。だが、おじさんは敬愛する一人さんの言葉ではあるが、やや半信半疑である。
いっそのこと、あるとした方が、現世は生きやすいかも知れないなとは思うが、もう少し微妙複雑なものなのではないか、とも思うのである。
竹書房の実録怪談を読めば、一人さん説では地獄に堕ちざるを得ない輩の話が幾つも掲載されている。と言うより、地獄よあってくれと願うようになる。
次は全ての出来事は自分に由来するという立場を離れ、怪談に登場する怪の主体と神に関して客観的に考察してみたいと思う。
続く