本を読むという行為は癖の部類だ。
本が好きというのは理屈ではないんだね。
おじさんが持つ数少ない資格を取るときに、一番悩んだのが好きな本が読めなくなることだった。
もちろん資格もピンからキリまであり、それほど勉強しなくても取れる資格はある。
しかし、ちょっとそれで生活ができるような資格となると、おじさんにとっては片手間では無理で、一定期間、何かを犠牲にする覚悟が必要になる。
その資格を取るために必要な書籍は少なくとも十冊前後、問題集などを入れると数十冊になったけれど、それで読書の欲求が緩和される訳ではない。
また新聞というのも、どうやら記憶を薄れさせる弊害(効用?)があり、受験する者は読まない方が良いようだ。また、読んだからと言って、これも読書欲求を緩和する効果はない。
辛抱しかねて、軽い時代小説か何かを手に取ると、飢えを満たすように終わりまで一気に読んでしまう。一日棒に振るのは分かっていても、その本を手放せないのだ。
若い頃は、この読書の癖がなかったら、自分はどんな資格でも取れると思ったこともある。
実際は記憶力・集中力や忍耐力、あるいは、もっと別の経済力などの要素の方が大きいのだが、偉そうにそんな事を考えながら、詰まらない勉強を続けるのだった。
結局、読書の効用とは何なのか。
本当の効用は、学者や誰かがもっと緻密な分析をして発表されていると思うが、おじさん的体験としては、結果的に子供が本を読むようになっていたのは事実だ。
聞いたことはないけれど、たぶん、少しはおじさんの影響を受けていると信じたいが、母の死から、遺伝かも知れないと思うようになった。
おじさん自身は先日まで、親の姿を見て子供は真似をするという理論をひそかに信奉していたが、おそらく母が本を読んでいるのは見たことがないだろうから、母が本好きだという時点で、既に理論は破綻している。
おじさんの『母が死んだ』をお読みいただいていない方のために少し説明すると、おじさんは生まれ落ちてすぐ母方の祖母に預けられ、祖母が亡くなるまでそこにいたので、物心つなかい時にも母が本を読む姿を見る機会はなかったであろう、ということである。
それで結局、癖だの理屈ではないということで、今は了解したつもりになっている。
いまさら、わざわざ本の効用などという本を読むつもりもないし、分析する熱意もないから、次に理論?が破綻するまで癖ということで行こうと思う。