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いかなるゲームにおいても、戦略無き戦いは、ただ負けに出向くようなものだ。
それはオリンピックにおいても同様である。
後々に有利な展開が予想される場合に、意識的に引き分けるという選択肢は「あり」である。
但し、オリンピックという祭典において、スポーツマンシップにもとる行為は、いただけない。
【いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある。】
(財団法人日本オリンピック委員会所載の根本原則6より引用)
政治的問題を持ち込まないのも言うまでもない。
一言で言えば、子供が観て感動する場面が生ずるかどうかと考えれば良いのである。そんな引き分けのための戦いをどう感動できるというのか。
とかく人類は卑怯と見られる行為をしてしまいがちである。だから、スポーツにおいてはそれをしてはならないのである。よって、オリンピックというスポーツの祭典における戦略的引き分けは『なし』と結論する。
理想を持ち込みやすい場だからこそ、オリンピックが生まれたと言うこともできよう。
それを負ける方を選んだ方がよいという選択が行われるということは、ルール違反にならないなら、何をしてもよいという考えにつながり、その発想自体が、その国の民度の低さ、度量の狭さを如実に物語るのだという事を知った方がよい。
Kという国は、そう考えているのが見え見えである。柔道での七分袖と丈の短い柔道着は、ルールぎりぎりかも知れないが、いかにも見苦しい。
かの国がスポーツに貢献したことと言えば、柔道の掛け逃げ、組みぎわの腕の巻き込みという危険技、柔道着の事前チェック、方襟つかみ、諸手刈り(これはヨーロッパも多い)……、多くの禁止事項を数多く生んだことである。
オリンピックの根本精神はおろか、礼に始まり礼に終わる、柔よく剛を制す、という柔道の基本精神を学ぶことなく、柔道という競技を開始しているおそらく唯一の国である。
オリンピックでも問題が生じたら、必ずK国が当事者にいる。
バドミントンも、過去には、とにかく審判にクレームを言いまくり、相手のペースを乱すという戦術がお得意だった。
哀しい国と人々である。誤ったオリンピック観を子供達に植え付けなければいいが……。