今、エドガー・ケイシーに関するウィキペディアを読んだ。
ローマ教皇庁から注意勧告を受けたような事が書いてあった。異端ということか、その疑いがあるから気をつけよ、ということなんだろうね。
そうすると、おじさんが19で書いた『敬虔なクリスチャン』というのは、誤っているかも知れない。
ケーシーは転生という事に関して多くのリーディングを残しているが、キリスト教は魂の不滅や転生については、否定している。
著書の名前は忘れたが、それによると、キリスト自身は、霊魂や転生を語っていたが、後の確か公会議という、重鎮ではあるが人間で構成された会議での決議を経て、そういう見解となったと記憶している。
人間の会議で宗教の教義が決定される。
宗教の限界を見るような気がする。
結局、神は過去の偉大なマスターには、大切な教義を授けたが、今は偉大なマスターはいないし、教義は伝授し尽くされ、新たに加えることは何一つない。よって、今後、偉大な宗教が起こることはない。
という前提の下に、人間が会議をなさって方針を決定されているんだろう。
少しおかしくはないですか。
今も新たな啓示が与えられ、もしかしたらキリスト教初期の教義と相容れなくなったとしても、キリスト教が他に劣ったり、色褪せたりすることはない。
転生というものが、恐らく『最後の審判』のところと、矛盾を生じるという事だとおじさんは推測するが、やはり魂の不滅という事を言う方が信者は救われるのではないだろうか。
この世は善と悪といった2元論の世界である。宗教は善を教えるものであり、悪を排除するものである。
だが、本当は善も悪もなく、行為というものがあるだけである。
それには、悪人正機説を唱えた親鸞を思い出せばよい。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というあれですね。
なんだ悪人でも往生出来んのかよ! 何か損したぜ。
という巷の声が鳴り響いているのが聞こえる。
親鸞の独創ではなかったようだが、仏教の懐の深さを見る思いがするね。
浄土真宗がその後、どう説明していったのか興味はあるが、ただ、魂が死後、大いに反省し、より困難な境涯を選択して、転生してくることはありそうだ。
こう書いているとき、今話題の大津市の自殺問題を連想した。
次は宗教と絡めて『いじめ問題』を考えてみる。