ほかにもモンテーニュの『随想録』や、ギリシャの哲人アリストテレスの『論理学』や『形而上学』なども読んだ。


 おそらくおじさんは20歳前後だったと思う。


 ほかにも夥(おびただ)しい推理小説を読んだ。横溝正史、松本清張、高木彬光、後に左がかってくる森村誠一、海外ではエラリー・クイーン、アガサ・クリスティー、エドガー・アラン・ポー、あっ、連想から江戸川乱歩、コナン・ドイル等々、もその時点で文庫出版されているものは、全て読んだ。


 そんな軽い本を読みながらも、一方でちょっと高級な本もページだけは捲(めく)っていた青春時代であった。


 ドストエフスキーやトルストイ、チェーホフといったロシア文学、モーパッサン、モーム、カフカ なども教養を身につけるため?に苦しみながら読んだ。


 そんな中で、生きるということの意味をもっと直接的に教われない物足りなさを感じ、やはり宗教しかないのかとも思ったが、神というものが受け入れられなかった。


 幾ら読んでも、神という者が、何か口うるさく命令し、怒り、要求し、罰を与え、自らを信じる者だけを救うというあまりの狭量さに鳥肌が立つ思いがして、むしろ仏教というシステムの教えのようなものの方がまだましだと感じていた。


 そのうちおじさん心に虚無が住み着くようになっていった。心が虚無に陥るというのは、何も楽しめないということだ。


 生きていることの意味が明らかにならない限り、意味というものが無いわけだから、何も楽しむことが出来ない。だから心から笑うことがなくなった。


 ただ、動物としての本能のまま、体が求めること、楽しいことはなんでもやった。飲む打つ買うの3拍子と言うが、今なら、酒を飲み、ギャンブルをし、風俗へ通うといったところか。


 しかし、当時のおじさんにそんな金はなく、ナンパし、安い飲み屋へ行き、あるときは麻雀に明け暮れるといった日常だった。