信仰をもつというのは、如何に生きるかという問題と直結している。
生きるとは何か、死とは何か、生まれてきた意味は、といった問題を解決するために一つの拠り所として宗教というものが登場する。
池田晶子という早逝した哲学者が、自分は死の問題についてとっくに結着をつけている、といった趣旨のことを何かのオピニオン誌に書いていたが、どう結着をつけておられたかは知らない。
哲学的な結着なら、現在ただいまの瞬間瞬間の存在に意味があり、瞬間が途切れることが『死』だということだったのかも知れないし、神との関わりの中で何かの境地に到達されたのかも知れない。
おじさんも恥ずかしながら哲学書なるものを読んだことがある。 バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』を一通り読み、ヘーゲルの『精神現象学』というものにトライしたが、どうにも理解できず、ひとまず本を置き、カントの『純粋理性批判』にトライするために上中下巻の上巻を買ってみた。
というのは、哲学者の中には大きく問題を提起した人と、それに答えた人に分けられることを知っていたからである。
つまり、カントが問題提起、ヘーゲルが回答者という図式になる。ヘーゲルに頓挫したのはカントの理解が足りなかったと思ったんだね。
ただ、カントは、おじさんには取っつきやすかったけれど、これも断念した。ある人に哲学者はこんなにたくさんいて、一人の一冊の著作ですらこれだけの時間を掛け、それでも理解が出来ているかどうか覚束ない、と言ったところ、その人は山に喩えて、誰でも最初はそう思うのだが、だれでもいいから徹底的に読み込み理解できる(頂上に到達する)と、たくさんの山の頂きが見えてくる、と言われた。
それで、そうかとカントの山に登る決意を新たにした者は大成しただろうが、おじさんは、今はこれに時間を掛けていられないと、そっとカントの山どころか、哲学の山に背を向けた。
だから今、大成せずに平凡な日常の中で、ひそやかに暮らしている。
その後も、往生際悪く、書店の哲学書のコーナーに立っては、書名だけを読んでみたり、文庫本で廉価の書物があれば、買って読んでみたりした。
だが、もともと頂きをめざす気概がないのだから、表面的な理解で終わっている事は確かだ。しかし、表面的とはいえ、ニーチェの『善悪の彼岸』や『ツァラトゥストラかく語りき』などはまずまず理解できたのではないかと思っている。
そうそう、そのころパスカルの『パンセ』も読んだ。おじさんの用いている考葦という名前の由来となったパスカルの名言が、この中に書かれていたものかどうか、申し訳ないが忘れた。
この記憶は確かだと思うが、パスカルは思想家としては、思想書を書くと構えて著述したものはなく、死後残された夥しい紙片を、後世の誰かが纏めたものが『パンセ』なんだ。
ほんとにパスカルには申し訳ない。だが、考えろ、そこから立ち上がれ、弱い葦のごとき人間でも、そこに道徳の原理がある、という理解はたぶん間違っていない。
生きるとは何か、死とは何か、生まれてきた意味は、といった問題を解決するために一つの拠り所として宗教というものが登場する。
池田晶子という早逝した哲学者が、自分は死の問題についてとっくに結着をつけている、といった趣旨のことを何かのオピニオン誌に書いていたが、どう結着をつけておられたかは知らない。
哲学的な結着なら、現在ただいまの瞬間瞬間の存在に意味があり、瞬間が途切れることが『死』だということだったのかも知れないし、神との関わりの中で何かの境地に到達されたのかも知れない。
おじさんも恥ずかしながら哲学書なるものを読んだことがある。 バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』を一通り読み、ヘーゲルの『精神現象学』というものにトライしたが、どうにも理解できず、ひとまず本を置き、カントの『純粋理性批判』にトライするために上中下巻の上巻を買ってみた。
というのは、哲学者の中には大きく問題を提起した人と、それに答えた人に分けられることを知っていたからである。
つまり、カントが問題提起、ヘーゲルが回答者という図式になる。ヘーゲルに頓挫したのはカントの理解が足りなかったと思ったんだね。
ただ、カントは、おじさんには取っつきやすかったけれど、これも断念した。ある人に哲学者はこんなにたくさんいて、一人の一冊の著作ですらこれだけの時間を掛け、それでも理解が出来ているかどうか覚束ない、と言ったところ、その人は山に喩えて、誰でも最初はそう思うのだが、だれでもいいから徹底的に読み込み理解できる(頂上に到達する)と、たくさんの山の頂きが見えてくる、と言われた。
それで、そうかとカントの山に登る決意を新たにした者は大成しただろうが、おじさんは、今はこれに時間を掛けていられないと、そっとカントの山どころか、哲学の山に背を向けた。
だから今、大成せずに平凡な日常の中で、ひそやかに暮らしている。
その後も、往生際悪く、書店の哲学書のコーナーに立っては、書名だけを読んでみたり、文庫本で廉価の書物があれば、買って読んでみたりした。
だが、もともと頂きをめざす気概がないのだから、表面的な理解で終わっている事は確かだ。しかし、表面的とはいえ、ニーチェの『善悪の彼岸』や『ツァラトゥストラかく語りき』などはまずまず理解できたのではないかと思っている。
そうそう、そのころパスカルの『パンセ』も読んだ。おじさんの用いている考葦という名前の由来となったパスカルの名言が、この中に書かれていたものかどうか、申し訳ないが忘れた。
この記憶は確かだと思うが、パスカルは思想家としては、思想書を書くと構えて著述したものはなく、死後残された夥しい紙片を、後世の誰かが纏めたものが『パンセ』なんだ。
ほんとにパスカルには申し訳ない。だが、考えろ、そこから立ち上がれ、弱い葦のごとき人間でも、そこに道徳の原理がある、という理解はたぶん間違っていない。