コンサートの放送を見ていて、心から感動できる演奏に接することが出来たときの感動は、スタジオ録音を遥か凌駕していると思えるのは、私自身が元来ハードロック・ファンだったことに由来するものかも知れません。
そんな個人的なことはさておいても、世の中のクラシックファンには、生音派と録音派の方たちがおられまして、その中間かもしくは生音派の一部に録画派(映像派)の方たちがいるのかな・・・などと感じております。

まあ、厳密には線引きなどは出来ない世界ですので、あくまでもクラシックとの接し方で頻度が高いものはどれかということなのでしょうし、人によって音楽への向きあい方が異なる以上、そこに様々な聴き方があるのは当然です。

例えば、2010年の庄司紗矢香さんのクロイツェル・ソナタですが、CD録音とリサイタルを比べれば、生演奏の方がはるかに音に張りがあるし、緊張感にあふれていると私的には感じるのです。CDの方は、まるで、表現の仕方を十分に咀嚼しきれなかったのではないか、と思われるほど、音に迷いを感じてしまいます。決して表現力や技術が足りないといったものではないでしょう。対して、リサイタルのほうでは、割り切った後の勢いとともに、「間違いはなかった」という確信を感じます(全て想像の域ですがね)。これはこれで、大変に楽しい思いをさせていただいております。

さらに、前回書いた、神尾真由子さんにはクロイツェルのCD録音はありませんので、現時点では大変貴重な演奏記録だったりするわけです。

何度も聴き直すという点ではライブ録音でも良いのかも知れませんが、演奏中の表情一つ一つにも音楽が宿っているような気さえして、生録の魅力は尽くし難しです。


さて、そういう意味で、録音のほとんどないといわれるアンリ・バルダ氏の来日公演の放送も貴重でありつつ、実に感動あふれるものでした。
放送された演目は、
ラヴェル「クープランの墓」「高貴で感傷的なワルツ」「ソナチネ」
ショパン ピアノ・ソナタ2番
いずれも高度なテクニックが必要とされる曲目ばかりですが、とにかく私が恰好良いと思ったのが、ピアノの前に座るや否や、間髪を入れず颯爽と弾きはじめたところでした。

しかも、実に力強く、一つ一つの音が明確に、
決して詩情を持ちこむことなく、ラヴェルの色彩豊かな世界を、一色また一色とカンバスの隅々に原色のまま落としていくようです。ゴッホの筆使いのように見てとれました。

ショパンの2番も同じ解釈で演奏するのですが、これも、「なるほど」と膝を打つおうな驚きで一杯になりました。
おしむらくは、本当に氏の演奏が録音という形で残されていないことだけなのです。



以前、庄司 紗矢香による同曲の感動を、お伝えしましたが、神尾さんも負けてはいませんね。素晴らしい演奏でした。


庄司さんの演奏が、まるで花弁が一片一片開いていくかの如く、香り立つような演奏のうちに曲の構造をつまびらかにしていくのに対し、神尾さんのそれは、静かな佇まいの中に燃えぎるような情熱を感じ取ることのできる非常にエネルギッシュなものでした。


ともすると、自己表現の強いところが一部のクラシック・ファンには敬遠されるかも知れませんが、そんなことを気にしていては世界を股に活躍なんてできませんね。これこそが、私が最近の若い方に共通して感じる何かなのかも知れません。


さて、そのヴァイオリンの旋律は、胸のうちに秘めた思いを一気呵成に吐露するかのごとく、激しく、雄弁に歌います。これまで聴いた、他の誰とも異なる、神尾さんなりの表現の濃厚さは一度聴けば病みつきになること請け合いです。

昨年末にギドン・クレーメルとカティア・ブニアティシヴィリが来日し、そのコンサートの一部が放送されましたので、ご覧になった方も多いでしょう。遅ればせながら、ようやくと録画を見ることが出来ました。


正直言うと、私自身はクレーメルの熱心な聴き手ではありませんが、それでも、かつて聴いた印象から、かなりキレのある演奏をするヴァイオリニストだった覚えがあり、よもや今回のように抒情性豊かな演奏をするとは思ってもいませんでした。


しかも、それ以上に驚いたのがカティア・ブニアティシヴィリのピアノでした。
彼女の初見は2011年のヴェルヴィエ音楽祭の映像でしたが、一瞬のうちに高速パッセージに移行するときのスリル感や、野性味あふれる力強い強奏部ばかりが目に付いた演奏であったのに対し、今回は、豊かな抒情性を付加することで、フランクのヴァイオリン・ソナタが非常に表情豊かな曲として表現するのに大きく貢献しており、感心することしきりでありました。