吸い込む空気がふわっとあったかい季節になった。
春雨がいいお湿りになって、カサカサの顔も心もようやく落ち着いて来た。
そろそろダウンもしまえるし、コンビニへ行くにも重装備の時期が終わって身軽になった。

先日、お客様に地元の朝摘みの苺を頂いた。
スーパーのと違って裏も表も真っ赤な苺は
みっちり、これでもか、と春の力が詰まっているような味がした。


それにしても今年も早や四分の一が終わろうとしている。
四月終われば三分の一。

桜はなかなか咲かないが、ちょっと前に赤ん坊だった子供が気付いたら成人式の着付けを頼みにやって来る。
一日はそれなりに長く苦しいのに一年は、十年までもがあっという間だ。

一日を大事に生きるというのは年を取るとかえって出来ないように思う。
能力、体力は衰えるのに雑用は増えるばかりで、根の要るまとまった仕事には中々手が付かない。

達成感のない日々に忙殺腐心させられ、感動というものを忘れていく。
六十才になるとはこういうことか、と愕然とする。
まさか感受性が老けるとは予想しなかった。

身近な花や自然はいっそう美しく、犬やら猫やらはさらにいとおしくなるが、人に対する興味はどんどん薄らいでいく。
これは期待や幻想が悉く裏切られ、人は大体似たり寄ったりで、素敵な人なんていない、素敵を演出してる人がいるだけだと知ってしまったからだろうか。

だから、ひたすらに自分の本分を、ブレず腐らず淡々とやっている人にむしろ感動する。
先日やっと神保町すずらん通りのはちまきで天丼を買うことができた。
揚がるのを待っている間、店主が屋台から始まったという先代からのお店の由来を話してくださった。

蕎麦屋も天ぷら屋もいっぱいあったが、みんなバブルのとき株や投資に手を出し、借金を抱えて廃業したらしい。
残っているのはその時手を出さなかったとこだけです、うちは財産もないかわりに借金もないからねえ、という話だった。

有名なまつやもやぶもみんな同級生だそうで、この地を愛してやまない、天ぷら一筋店一筋の心意気が伝わってきた。
揚げている職人さんの手元の確かさが、山の上ホテルに後輩が三人います、という言葉を裏付けていた。

てんやより早く仕上がった天丼は母の手術が終わるのを待って朝から病院に詰めていた妹の家族にとても喜ばれた。
思えば主婦も生活の職人である。

素敵な人というのは豪邸に住み、アフタヌーンティーパーティーをする巻き髪の美人ではない。
商いのコツが飽きないことなら、人生を飽きずに本分を生ききる、それが素敵で、それなら私にも努力次第で出来るはずのことではないか。

ともすればサボり、暖衣飽食に走る醜い心身は、時に背筋を正される必要がある。
その気になれば町の至るところに師あり、せいぜい出歩いてみよう。