お坊さんが手にしている(最近は若い子も)お数珠って何だと思います?


数珠(じゅず)

数珠(じゅず、ずず)は穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。仏を念ずる時に用いる珠との意味から「念珠」(ねんじゅ)とも呼ばれる。字の前後を入れ替えて「珠数」と書く場合もある。

梵名はアクシャ・マーラー(sa:अक्षमाला [ KH-aa:akSamaalaa])といい、『陀羅尼集経』巻四に用例が見られる。またヒンドゥー教文献ではアクシャ(akSa)、アクシャ・スートラ(akSasuutra)、ジャパ・マーラー(japamaalaa)、アクシャ・ヴァラヤ(akSavalaya)などと呼ばれる。あるいは単にマーラー(maalaa)やスートラ(suutra)とも略称される。

アクシャとは物をまっすぐ貫くものの意味で、梵語では車軸や心棒などもこう呼ぶ。ジャパとは祈りの言葉を囁いたり呟いたりする事の意味で、これが神仏の名や真言陀羅尼を唱える時に使う道具である事を示す。マーラーとは物を糸で繋いで連ねたものを指す言葉でネックレスなどもこう呼ばれる。またアクシャとは梵語の字母表の最初の文字aと最後の文字kSaを合わせた単語でもあって、言葉のすべてを象徴し、ヒンドゥー教では50珠を連ねた数珠が通例である。

念仏の際に音を立てて揉んだり、真言・念仏の回数を数えるのに珠を爪繰(つまぐ)る目的などで用いる。

ただし念仏の回数を問題にしない浄土真宗の場合は仏前での崇敬の念の表れとして用い、爪繰ったり、擦り合わせて音を出す事はしない。

起源は諸説あるが、古代インドのバラモン教で用いられていた道具を原型とするとされる。それが、釈尊により用いられ、後に中国に伝わる。そして仏教伝来とともに飛鳥時代には日本に伝わったとされる。鎌倉時代に入り、浄土教が流行し称名念仏が盛んになるとともに一般にも普及する。

最近では腕輪念珠(腕珠)と呼ばれる、数珠を小型化し中糸をゴムなどにして腕に着けられるようにしたブレスレット的な数珠がある。ただし腕輪念珠は、数珠本来の用途に用いるには大きさに無理がある。
                                                      (wikipediaより抜粋)




…と、かのwikipediaに解説されていますが、果たしてそれだけなのでしょうか。

確かに、「煩悩と同じ108個ある」だとか「読経しながら上げたお経の数を数える」などと言う話を聞きます。



なんだかこれだけを聞くと、お坊さんの便利な小道具的な話ですよね(苦笑)。

仮にそうなら、何もありとあらゆる仏教徒が手にしなきゃいけないものではないし、と言うよりも、さほどありがたいものとも思えません。

なにせ、お経を唱えるプロが、唱えたお経の数を数えるなどと…有り得るけれど、余り口にはして欲しくない話ではありませんか?




ココに一つ、ご紹介したい玉があります。



ナチケータスの裔 写真:土念珠(main所蔵)



ご覧ください。

判り辛いかもしれませんが、これは粘土でできています。恐らくは粘土をこねて焼きしめたものです。

大きさは…。

ココに写っているのが、直径2.5センチほどですが、もう一つ大きな直径3センチほどのものもあります。

どちらも、球形と言うよりは楕円…というか、そろばんの玉を大きくして角を丸くした感じです。


外周には幾つもの穴が穿たれ、見ても判るように、その中央には、向こう側まで貫かれた穴が一つだけ通っています。



古墳時代前期の遺跡より出土したらしいこの玉、皆さんは何だと思いますか?

ネックレス、ブレスレット…。

基本的には古代人の装飾品とされていますが、そんな安易な説明に疑問を抱いたとある考古学者が「お数珠の原型ではないか?」と、mainに預けていったものです。



数珠の原型…。

日本に仏教が伝来したのは、6世紀半ばの欽明天皇期とされています。

6世紀半ばと言えば、古墳時代の終盤に差し掛かった頃。多くの考古学者が唱える「装飾品」説と一致しているかに見えますが、微妙にズレてもいます。

微妙にとは言っても、その差はおよそ数百年。決して微妙ではありませんね。

ただ、ここで言う「仏教伝来」とは、国家間において公的に伝えられた、正確には「仏教公伝」です。

それ以前にも、民間人による様々な行き来の中で仏教が伝えられたであろうことは想像に難くありません。



では、そんな風に民間人によって仏教が伝承されたであろう時代の倭人の宗教観とはいかなるものだったのでしょうか?



ここからは、mainの勝手な憶測です。


最も原始的な、「アミニズム」と呼ばれる多分に呪術的な儀式に支えられた死生観に、大陸から伝来した「道教」的宗教観が混ざり合い「神祇」としてジャパナイズされ、それ以前の様々な儀式やまじないの類が宗教的な意味を持たされて行く…。

そんな中に、この「土玉」も位置付けできるのでしょう。

確かに、現代においても「お数珠」は仏教を信奉する者にとって紛れもない「仏具」ですし、現代においてはある種のアクセサリーですらあります。



しかし、それはあくまでも「お数珠」の話。

この「数珠の原型では?」とされる土玉は、決してアクセサリーなどでは無いと断言できます!

なぜなら、この「数珠の原型では…」と手渡されたmainにとって、欠かすことのできない「秘具」だからです。




では、この玉がどのような効果をもたらすか…。



まず写真でご紹介できていない大きな玉(径3センチ程度)は、mainが相談者の「働きが鈍っている」と感じるチャクラにかざすと、まるで「ギューン」と機械的な音でもしているかのような感覚をmainの手に残しながらチャクラを回し始めます。

そうして、閉じていたチャクラを再び活性化させるのです。



そしてもう一つ。

小さい玉(写真・径2.5センチ程度)は、相談者の体内に蓄積している悪い気をもの凄い勢いで吸い取ります。



そんな効果を目の当たりにした時、ある物語が脳裏をかすめました。

それは、道端に倒れている人を旅の僧侶が抱き起し、痛がる箇所にお数珠をかざしながら読経をあげると、やがて痛みは消えた…。と言うような物語です。



皆さんも、似たような話を何かで読むか耳にしたことがあると思います。

そして、その話の結末は…。

「手当は手を当てる事なんだ」と理解させられたに違いありません。

それは、間違いではありません。

確かに「手当」とは「手をかざす」行為に由来する言葉でしょう。



ただ、加えて重要なのは、「誰が何を持って手当てするか」ではないでしょうか。


恐らく人間には、太古、まだ人間が逞しく野生を残していた頃は、手をかざすことによって注ぎ込むことのできる、ある種のエネルギーで痛みを和らげたり取り去ったりできたのでしょう。

現代にも、まだそのような力を有している方がたくさんいらっしゃいます。


加えて、その「手かざし」をする者が、更にその能力を磨くべく特殊な修行や呪文を唱えることが出来たなら、その効果は倍増したに違いありません。なぜなら、そのための修行であり呪文だからです。


そのような特殊な人間を、修行を積んだ僧侶や陰陽師に置き換えても良いかもしれません。(その方が判り易いでしょう)


では、そんな僧侶た陰陽師の手に、古の術者たちが用いた「秘具」が握られていたなら…。

傷付き倒れた旅人も回復したに違いありません。



しかし、それらの不思議も、時と共に宗教の名の元に教義・法理の中に儀式・様式化されながら組み込まれていき、今のお数珠になってしまったのではないでしょうか?

mainには、そんな風に思えてなりません。