巫(かんなぎ)の林 紗妃です。

本日は魚座の新月。
ジャスト新月は朝10時前でしたが、新月タイムは明日のまで続きます。


魚座の季節は、十二星座の最後だけあって毎年のように「浄化」が働きますが、今回は優しくないような気がします。

安心感を得てから進む方法もありますが、先に動いて刷新したほうが早い!…みたいな、力強さを感じます。

自分へのわだかまり、罪悪感や不安、恐れ。
それらを書き換えるのに、今の自分は納得なんてしないんじゃないでしょうか。

だって、囚われた枠組みの延長線上で、癒やしは起きないからです。
喪失を得て初めて解放されることが、この新月の間に数多くある気がします。

きっと今は「覚悟するチカラ」も必要なのでしょう。
自分への甘さやぬるま湯につかる心地よさから出て、対峙する勇気を持てるかどうか?


でも、だからって自分を追い詰めるのとは違います。
覚悟することは、事実を受け入れること。

自分の価値観やありよう、世界観も含めて、長所も欠点もあれば、できることもできないこともある。
それでも世界は相変わらず横たわって、何を自分で引き受けるかは自分の自由意志による選択次第です。


逃げ続ける、という選択肢も自由に選べるものの、なんだかそれも違う気がします。
それは、自分の可能性や選択肢を諦めて、生きることになるから。

その選択は、今この瞬間だけは安心できるかもしれないけれど、やがては蓄積してツケを払うことになります。


避けて通れない痛みなら、いっそ自分で引き抜いたほうが手っ取り早くラクになれます。
刺さったトゲを抜かないままでいても、血を流し続けるなら、それは慣れただけで、癒やされたとは言いません。


悲しみや寂しい気持ち、喪失感は一瞬だけ。
恐れや不安は、その外に出たときに解放されます。
私の中にある勇気は、自分の幸せを勝ち取るためにある。
そう信じるなら、案外「覚悟する」のも悪いことではないのかもしれません。


癒やしは一人で選択するもの。
でも、決して孤独になることではありません。
見捨てられる不安は、自分の心のなかにある幻想です。


ただいま受付中の神さまメッセージ及びレッスンでは、自分と向き合って現実的な豊かさを得ることを手助けしてくれます。

「お金」というモノを自分の豊かさに結びつけたとき、開花する可能性があります。
それはご自身の価値観やありようから出てくるもの。

自分の中にあるものを受け入れたとき、豊かさの新たな循環が巡ることを神さまたちが総動員で教えてくれるのです。


決して独りにはさせない神さまとのご縁から、ご自身の内に秘めた豊かさの可能性を開いてくださいね。


 
巫(かんなぎ)の林 紗妃です。


内面の自己調整は、まだまだ続いています。本日は、自分で自分を許せなかったお話。
 
 
許しにも、対象は他者や過去など、いろいろあると思いますが、やはり「自分を許すこと」が一番先です。

それは、簡単なことではありません。
なぜなら、自分の意識や行動に対する罪悪感から逃れようとするからです。
 
許せない自分から逃れようと言い訳をしたり、代償に身をやつしたり。
私も、そんな風に自分の心の声は度外視して、いつしか謝ることも諦めていました。
 
そうすると「誰かに許してもらう」ことを選ぶようになります。
ですが、自分で自分への許しを認めない限り、満たされることはなく、終わりなき「許しを得るための行動」を続けることになります。
 
打破するには、自分の罪悪感を引き受けるしかありません。
あるいは人によっては、「自分を非難する自分の声」も受け止めることが必要になるでしょう。
 

実際、私もずっと「オマエなんか」と非難して、その声を受けて「自分なんて」と卑下する声が出てきました。

それは過去に起こったできごとによるものでしたが、よくよく考えてみると、自分の問題でも責任でもありませんでした。

自分の意志や力が及ばぬことで、大変ショックを受けたのを「自分のせい」にすることで、守りを固めていたのでしょう。

かつては自分を駆り立てる原動力ともなりましたが、どれだけ結果を出しても自分を満たせず、置き去りにしていた自分と向き合うしかないと悟りました。
 
そんな自分の声に怯えていたからこそ、誰かに許されることを期待したり、何かすることで代償しようとしていたのでしょう。
今度は、そんな自分の声に耳を傾けて、受けとめているところです。
 

もしかすると、自分の存在や能力を矮小化する人も、そんな風に自分自身の責任の「外」で起こったできごとで、自分を責め続けているのかもしれません。

過去を変えることはできませんが、「今の自分」と「その自分が今できること」に焦点を当てたとき、過去への捉え方は書き換えることができます。
 
認識を新たにすることで、思ってみなかった選択肢も出てきます。
責めるのをやめられなくても、耳を傾けることはできますし、行動で代償するよりも、意識を「受けとめる」ことに持っていくことはできます。

そうして少しずつ選択を書き換えながら、自分を許すのは「自分の最大限の可能性を引き受ける」ことにもつながるのだと思います。
 
 
それにしても1月からずっと、現実的な豊かさを受け取るための後押しを神さまから受け取っていますが、それにはまず、自分にとっての「人生の価値」を見直すことが必要だったんですね。

「行き過ぎたカンペキ主義」を見直すべき時が来ているのも感じます。
げんに自分の範疇外のことにまで責任を感じていたわけですから、許せないと思うのも当然のことです。
 
 
結局は豊かさも「自分の作る現実」。
歪んだ価値観や認識でいる以上、いつまで経っても自分の力は発揮できないし、当然ながら「受け取るべき価値」も見逃してしまうことになります。
 

自分を許すことは、自分を癒やすこと。
そして、許しにも癒やしにも条件はいりません。
もちろん、誰かの許可も必要ありません。
なぜなら、許されなかった体験があったとしても、自分で許せないことにはならないからです。
 

全体的な運気の流れとしても、今は強い浄化力が働いているように思います。
それも週明けから、春分に向かってラストスパートをかけているような。

人生観を書き換えることも、現実的な豊かさへと繋がっていく。
見えない価値も大切にしながら、この世で生きる喜びを存分に謳歌することを自分に許せるといいですね。



人生観から見直して現実的豊かさを得たい人へ☆
 
 
 
 

巫(かんなぎ)の林 紗妃です。

久しぶりに藤崎宮へ。

ここは八幡様が祀られているんだけど、呼ばれたのは、摂社のスサノオさんだった(笑) 

ちょくちょく呼ばれていたのをやっと重い腰を上げて自転車を漕いでしゃこーっと。 

途中、いつものクセで市街地に行こうとしたのが、横断歩道を渡る直前で気づいて進路変更。
アブナイ、アブナイ。いつものクセっておそろしい。


拝殿前の広場のスカンと広がる空は、何度見ても好きだなあ。
見上げると、なんか結界?みたいなのがあるような?
念で捻じ曲げたというより、ごく自然な感じ。
昔、沼島で見たのと、よく似ている。 


スサノオさんの言伝ては「与えず見守る」でした。

まるでオヤがコドモを見守るみたいだな、と思った。

反応しない、対処しないって何かするよりキツイな。

それでも今必要なことなら、私はそれをすべきなんだろう。 


裏手に回りながら、初めて熊本に来てここで御用をしたことを思い出した。 

あのときは暑くて、蚊にも刺されたっけな。


反対側の拙者末社の敷地に入ると、そよそよと吹く風が止んで、静けさが増した。 

まるで、誰もいないみたいに。 

神さまと私だけの時間をくださったのかもしれない。
うーんと、伸びをしてほんの少しだけ浸った。


境内ではフォトウェディングの撮影中。 
アレコレ指示されていたのが微笑ましかった。




巫(かんなぎ)の林 紗妃です。


内面の整理は進みつつも、ふと気づけばヒトに使うエネルギーがなくなってることに気づきました。 

どうやら必要だったのは、目的などまるでない自分のための時間が必要だったようです。



最近、図書館で借りたのは「路上のセンスオブワンダーと遥かなるそこらへんの旅」

東京の、なんてことない道を歩きながら、鉄塔だったり交通公園だったりに着目した街歩きエッセイ。

読みながら、雑多な人工物ときどき自然の中で、興味のあることを見つけながら、ぶーらり散歩するのもいいなって思ったのです。

神社や神さまの感覚とは違う、どちらかといえば「俗」に属するけれど、自分だって日常生活はそんな俗に浸っているわけですし、そこで磨かれるカンがあってもいいのです。


だから、今日はリフレッシュがてら、興味のあるナニカを探しに出かけてみました。


目指すは、市内有数の湧き水の湖、江津湖。
自然と人工物、4対6くらいの割合で、まさに「そこらへんの旅」にはピッタリです。

久しぶりだったので少し迷いつつも、なんとか見知った道に出ることができました。

夏に来たときは暑くて、川で水遊びしている家族やカヤックのグループなどもいましたが、今はさすがに水が流れるばかりです。


その代わり、猫をそこかしこで見かけました。

そういえば昔、小学校のときに「餌やりおじさん」とかいたなあと思い出します。

集まっているということは、何かしらメリットがあるはずだから、どこかで世話している人がいるのかもそれません。


通行止めで住宅街の道に迂回しながら、目的地の江津湖に着きましたが、いかんせん家を出たのが遅かったので、一周するのは断念しました。

春夏は人の多くいる芝生の広場も、今はまばら。

日課のジョギングに励むらしいおじさんたちを横目に、来た道をそのまま戻ります。


ときおり水の流れが緩慢な場所があって、水草がフワフワ浮いています。

ここに来るたびに、きっと夏はサンダルで来て水に浸ろうと思いつつ、はや数年が経ちました。

「今年こそは」と思いつつ、はたしていつになるやら。

少なくとも、冬に考えることではない気がする。



昔は公園で、今は水が張られているんだっけか。
夏はここで遊べるんだっけか。

そんな曖昧にかすむ記憶で眺めていた、象さんの滑り台。

色がすっかり剥げ落ちて、水の中にぽつねんと置かれている姿が、逆に目を引きます。


とかく冬は、色彩が乏しくなりがち。

ここも夏は確か、南国のような緑が見えていたように思うのですが、今はこの様子。

でも、ここからしゃんと立ち直れるんですから、植物とは強いものです。

今はちょっと、彩りをお休みしているだけです。



大通りに出るのに、行きとは違う道を通っていると、道の脇の花壇でもパンジーが咲いていました。

うん、冬の町でよく見かける色は、これだなあ。


野花も好きだけど、冬はとくに花壇でも、花が咲いているのを見るのが好きです。

今日の「そこらへんの旅」は、行きよりも帰りのほうが目を引くものが沢山ありました。



たとえば夏になるとプールになる広場とか。

奥のすべり台のパキッとした色合いもステキ。


どうも今、私が無意識に求めていたのは「色彩」だったようです。

ココロとか、見えないものも「多彩」だし「好き」ではあるけれど、一方では心が荒んでいきます。

目に見えるもの、形あるものでバランスを取ることも、私にとって必要なことだったんだなあと思いました。


そうでなけりゃ、普段なら公園の片隅にある遊具なんて、目にも止まらず素通りしていたはずです。

見えるモノと見えないモノと。
ココロとカラダのバランス。

一時間ちょっとの「そこら辺の旅」で、ずいぶん満ち足りた気持ちになれました。


私のココロも住む町も、自分の現実。
これからは、もう少し外に目を向けることも大切にしていこうと思えました。


自分の内側を言葉で汲み出したい方はコチラ。



ココロと現実を変える神さまの後押しはコチラ。








巫(かんなぎ)の林 紗妃です。


今日は、体感覚で感情を感じているときのお話。



怒り。悲しみ。恐れ。


私が当時の環境に適応するにあたって「必要ない、ムダなこと」と、ずっと切り捨ててきた感情です。

それらを今、受け止めている最中なのですが、つくづくカラダに記憶が刻まれているんだなあと感じます。


コワくて誰かにしがみつこうとしているなら、右肩。

自分のこだわりにしがみついているなら、左肩。


出てきたときは、本当に誰かに強い力でしがみつかれているように感じます。

実際は「私が自分でしがみついている」のですが、そうして「されている」と感じるのです。
(「他責」となりがちなので要注意でもありますが)


逆に、手放すときは「引き剥がされる」ような痛みを感じます。

たぶん、私自身がしがみついていたからこその、喪失の痛みなのでしょう。

出てくるのと手放すのと、同じ「痛み」でも体感が違うのは、面白いなあと思います。

と言っても、少々気が遠のくような強い感覚が出てくることもあるので、渦中はとても「面白い」などとは思いやしないのですが。


「背負っていた」ものが出てきたときは、肩から背中にかけて、ズシッと重力ごと下がるような感じがします。

凍りつかせていた感情が出てきたときには、胸のあたりがじわじわとヒンヤリします。

まるで雪解け水が流れ出るようです。


恐れそのものが出てきたときは少し厄介。

これまた、とても「寒い」のです。

出てくるときは上半身が冷え冷えしますし、抜け出るときはヒザ下から足裏にかけて冷たくなります。

もともと末端冷え性なこともあり、とくに冬のこの時期は身体的に冷えを感じやすいのですが、どちらなのか区別が付きにくいです。

凍てつくような視線を「解凍」したときなどは、暖房の効いた室内にいるにも関わらず、思わず温度計を確認したくらい「凍え」ました。


数十年の眠りから呼び覚ましたわけですから、強く感じるのも無理はないとはいえ、それにしたって極寒のベランダにいるような寒さ。

恐らく幼少期は感受性の高さから、感情と体感覚も強く結びついていて、抑えるのもワンセットだったのかもしれません。

当時の状況を考えると、持て余すのも無理はないと思いつつ、それでも冷えは堪えるので、先ほど靴下を二重履きにしたところです。


そんな体感覚が強いからこそ、できることもあるのですが、これもその一つ。

私もノートを使って自身の鎖を外しているところですが、やはり「言葉」で外れるものは多いと感じます。



同じ「言葉」でも、「言葉にならないモノ」が出てくるのがコチラ。



神さまとつながるって、結局は自分とつながることでもあるように思います。
「まだ諦めるわけにはいかない。私にできることはあるはず」と前を向く、不思議な力があるようです。