巫(かんなぎ)の林 紗妃です。


先日、豊かさの神さまメッセージ(お申し込みは終了しています)お客さんからこんなお便りが届きました。
※掲載許可済み/一部編集しています


こないだメッセージもらってから、『比べてるつもり』はない気でいたけど『ない』とか比べてるのがまだまだ根強いんだな〜って思って、 ぐるぐる考えて、結局『ある』とか『出来た』とかを書いて行くことだってやっぱりたどり着いて、でも前よりももっと納得したというか。

紗妃さんがブログで書いてた『豊かさを受け取るためのレッスン』で書いてたのがほんと納得!やっぱこれだ‼️って思ってさ。
これを地道にコツコツだよねって。

Aさん、ありがとうございます!
「まだ、これだけだけど」と謙遜されていましたが、とんでもない!

自分の中にある「ある・できた」を書き始めた。


それだけでも、大きな一歩です。


ヒトは本能として安定することを優先します。

つまり変化というのは、脳にとっては恐怖なんです。


だから、「大したことない」とか「こんなのあるうちに入らない」と理由をつけて、無意識に変わらない正当化、もしくは変化を回避しようとします。

でも、「あるもの・できることに気づく」のは、それ自体がそれ以上でもそれ以下でもありません。
まるで、わかっただけで「変わらざるを得ない」とネガティブに捉えがちですが、それは誤解です。

変化を起こすのは、いつだって自分自身!


いかに自分で気づき、乗り越えていくかがポイント。



あと、知ったら自分に失望するというのも誤解です。
確かに、自分にないものは羨ましいし、自分に備わっているものは大したことないように思えるけれど、その「自分で矮小化していること」に気づいたら、また違った視点が見えてくるはず。


そこで魔法の言葉は

どっちもあっていいよね!


「コレしかダメ」「自分のはダメ」と、条件をつけてバツをつけていくと、どんどん可能性が狭まります。
選択肢もなくなっていくし、生きるのがとても窮屈になります。

そうではなくて「コレもいいしソレもいい」「ヒトのも自分のもOK!」としましょう。
いいの、バツつけるリクツなんかいらないの。
マルにする理由もいらないから、「両方あっていい」を自分に許すこと!


最近、よく思うのが運気の流れと関係なく、自分で条件や制限をつけて勝手に『悪く』する人が多いこと。
コレ、私も例外ではなくて、どうやら「幸せや成功は無条件でいいことがコワイ」ようです。

これも恐らく「変化への恐れ」なんでしょうね。


だから、自分にとっての「あるもの・できること」を知るのって、けっこう変化にはキいたりします。
(だから避ける人も多いんだけどもね…あと、書いても「人に受け入れられるものだけ」とか条件つけたりして…いや、私のことだけどさ)


流れが悪いのは、運気のせいじゃなくて自分で枷をつけているから、なのかもしれません。

…と、そんなわけで運気を上げるのもさることながら、自分でつけた枷を外せるように、風神さんがサポートを申し出てきました。

しっかりカオを上げて、自分に誇りを持ってごらんよ!
自分だけにしかない宝物は、いくらでも見つけられるし、自分でしか開かない扉をいくつも見つけられるはずだよ!


自分のエネルギーシフトから、軽やかに流れを上向きに変える風神さんの後押しは、「どっちもあっていい」と受け入れた自分の「新しい未来の可能性」を開く合図になるのかもしれません。


エネルギーシフトと運気を吹き上げる風神さんの後押し

お申し込みは記事下部のフォームからできます。




過去に深く囚われた観念はカラダに刻まれていて、解放するのだって身体反応が忙しい。
あちらで痛み、こちらでウズウズしては眠れない夜が続く。最近は「とにかく眠ればよし」としている。

特に足が疼いたときは、家にいてもせいぜいストレッチしかすることがないから、歩くことにした。
どうせ日中は暑すぎて動けないし、誰もいない夜の町は快適に過ごせる。


寝静まった夜の町は現実感がなくて、誰もいない道路をキョトキョト見渡し、見慣れたマンションを見上げると、まるで巨大なジオラマを歩く気分になる。

「私だけの世界だ」なんて、ちょっと中二病めいた気持ちにもなるんだけど、これがなかなかどうして、気持ちがいい。誰もいないもんな。思うのは自由だよ。


歩くときは音楽も欠かせない。
今日はシンディ・ローパーだったけど、なんかちょっと古くさすぎて今じゃなかったな。
もちょっとパンチの効いた曲がよかったかも。

ポップにラップにアニソン、わりとなんでも聴くのに、最近の曲がわからない。
というか、もうここまで行くと新旧ごっちゃ。
時期によっては、その時の気分で一曲だけリピート、なんてこともざらで、後で聴くと過去の情景が浮かぶ、いわば記憶装置にもなっている。


クルマ、ときどきヒト。ところによりネコ。
まるで用意されたミニチュアみたいにすれ違う。
ひたすら歩く私は、でも特にどこかあてがあるわけでもなく、気の済むまで歩くだけ。


アタマとココロがちぐはぐで、わかっているのに手が出ないし、進まないし、止まらない。

きっとアタマのどこかがおかしいんだ。
事実、確かにおかしいからこうなるんだもんな。


アタマの言う「わかっている」という言葉の、薄っぺらいことと言ったら。
まるで、そう返さなきゃいけないとか、そう返しておけば問題の本質から逃れられるだろう、という期待で出力がされていて、実態が伴っていない。
それが自動運転だってんだから、ビックリだよな。


じゃ、本音はどうかといえば、ガマンして飲み込んでいるから、すぐには出てこない。
外に答えを求め、他者の承認を得て生きるしかない、と思い込んでいた末路がコレだよ。
いや、それがイヤだから解放し続けてるんだけど。
本音を出すのに条件も許可もいらないと、なんべん言っても腑に落ちない。
ただただ恐怖心だけが賦活されて、解消しようとせずに踏み留まるのにも苦労している。


自我と魂の違いをこんなところで実感している。
パターン化した思考が、魂のありようではないんだな。巧妙にかくされた罠、それを「自分の意志だ」って言っときゃ済むんだから。

同じところしか歩いていないのに、見慣れた場所のはずなのに、なぜか飽きずに町を見上げているのは、なぜだろうな。
白々と明けるのを見ると、自分の時間が終わったような気がして残念な気持ちになる。
いいから、さっさと寝ろよ四十路だぞ、と冷静に突っ込む自分もいるけど、ヨルのトクベツ感っていくつになっても変わらないみたいだ。


帰り道、マンションがすごく巨大に見えて、自分がすごくちっぽけに思えた。
大海の一滴どころか、町の一刷毛以下じゃないか。
自分がいなくなっても町は別にどうってことなく、とに何も変わらない。
その事実に寂しさを覚えるかと思いきや、その懐深さと安定感に、とても自由な気持ちになった。
どうあったって、受け止めてもらえるんだ。

世界ってあんがい、頑丈だ。
私が勝手にその上で、茹だったエビみたいに踊っているだけだった。




巫(かんなぎ)の林 紗妃です。

ブログがご無沙汰になっておりました。
っていうか、もうすぐ9月!?
え…どうしたものか(どうもならんよ)。


先日の熊本豪雨は、大した被害なく済みました。
ご心配くださった方、ありがとうございます。
中には、行きつけのバーや知人まで気にしてくださった方もいらっしゃいました。お店も無事です。
(Iさん、ありがとうございます!)

ただ漏水でアンティークの吊り下げ照明がダメになってしまい、マスターが修理に気を揉んでいました。
かなり古いので、買ったお店もなくて困っているそうなので、もし修理できそうなところに心当たりがある方はご一報くださいませ。
(できればお値ごろだとなお助かります…)


なお知人の一人は納車一ヶ月で水没、となかなかの被害に遭っておりました。
車の水没は多数で、代車も手が回らない様子。


市街地でも、馴染みの喫茶店の一方は浸水し、他方はエアコンが壊れ、また他でも浸水被害が…と、それなりに被害は出ているようです。

道路も至るところで陥没したり、周りで命の危険はなかったものの、もとに戻るには時間がかかりそう。

もともと特殊な地形で、水害に遭いやすいとはいえ、さすがにこの降雨量は如何ともしがたいよな…と、休業の文字を見て思いました。


私はといえば、相変わらず引きこもって内観、是正の日々です。そう、まだ続いてるんよ…。
7月で終わるかと思いきや、そう甘くはなかったか…と、と見積もりの甘さを痛感。

そろそろ神さまのお呼ばれにも応えなきゃな…と、思いつつ、もう少し時間がかかりそうです。

なお、次はどうやら風の神さまのようで、久しぶりだな、と思いつつ今はまだ保留中。

去年から続く、内面で抑制してきたことの炙り出しの流れは、まだまだ続きそうですが、ここでちょっと上向きになる予感がしています。


まだまだ暑い日が続きますが、熱中症に気をつけつつご自愛くださいませ。






巫(かんなぎ)の林 紗妃です。

先週25日は天神さんの縁日でした。

本当は太宰府に行きたかったものの、日中は35度を超える暑さに体力がもつ自信がなくて、市街地にある菅原神社へ。




台風が近づいていたためか、時おり心地よい風に吹かれながら手を合わせました。
今回は個人的な目標も宣言すると、応えてくれるかのように、さやさやと吹く風。


頑張ろう、と思いました。
夏の暑さに、負けないで。



週末は、奈良から来た友人をお迎え。
さすが6年ぶりに会うと、いろいろ変わっているものもありますが、喋り始めたら何も変わらないやり取りで、なんだか少し関西に帰った気分になりました。

天草のお寿司、気に入っていただけて何よりです。



今回は、しつらいがステキな個室にて。
畳敷きなのに気づかず、靴を脱がずに上がろうとしてしまいました。あわわ…。

秋に来ると紅葉が楽しめそうです。



場所を変えて、さらにお喋りは続きます。


大人になればなるほど、物事や人を動かすまっすぐに見ることは難しいけれど、それでも惑わされずにいようと思いました。

肩書きだけで判断されるなんて、悲しいでしょう。
それだけが「自分」であるなんて、虚しすぎます。

どこで何してようとも、「自分は自分」と言える人は無敵です。
時おり昔を懐かしんでも、今を生きていたいものです。





巫(かんなぎ)の林 紗妃です。

自分を整えるのが最優先!
…ということで、ご無沙汰しておりました。


この期間、何をしていたかといえば、気になるものやしたいことに手を付けていました。

意外と気になったのが「食」のこと。
食べることが大好きなのですが、どうにもおざなりにしがちだったのを急に興味が湧いてきます。

水前寺香味(スパイス)堂のキーマカレー。ビリヤニで有名なので、香草がいける方はぜひ。

近所で美味しいと噂のキーマカレーを食べてみたり。
あれ、カレーのあの黄色いルーがな…い、だと…?

戸惑いつつ食してみると、一番控えめでも辛い!
見た目に反して濃厚で、スパイスが効いていました。

ちょっとした新体験です。


同じく水前寺の「とらや」。外の生簀で見る伊勢海老やアワビは圧巻です。

今週末に遊びに来る、奈良の知人のリクエストが「お肉を避けて」とのことだったので、お寿司屋さんなども開拓してみたり。

天草直送のお魚、ランチはお値ごろ価格で美味!
地元の方はお祝いごとなどにも使われるそうです。
ちょうど私が来たときは、お寺さん用にとお稲荷さんのお揚げを大量に炊いていました。
なんか、そういうのも「地」を感じていいなあ。

家でも、何か自分で作りたくなって…いえ、いつも自炊はしているのですけれど、ちょっと手の込んだものを…というわけで、圧力鍋でコンビーフなどを作ってみたりもしました。

冴えない写真でスミマセン…

もともと近くの精肉屋が気になって飛び込んでみたものの、国産牛は高いのよ…と、いうわけで、まずは豚のかたまり肉で挑戦。
500g6000円は、流石にビギナーには気が引けまして。

事前の漬け込みが足りなかったせいか「これはこれで美味しけど物足りない…?」という有り様(苦笑)。


次に作った中華粥も「弱った胃腸には優しいお味だけども…」という、なかなかに薄味な仕上がりで、「くっ…このままでは終わらぬ!いつかリベンジを!」
…という結果に終わりました。


書いていて、自分のお料理レベルの低さが露呈しているようで、ちょっとお恥ずかしいのですが、次は美味しそうな写真を出せるように頑張ります…(笑)


プログラムが始まる前は撮影可能、熊本博物館のプラネタリウム。

あるときなどは、プラネタリウムの気になるプログラムを見つけて、最終日に駆け込み。

スタジオKAGAYAのプログラムは、二十代(!)の頃に池袋で見て、それ以来ひそかなファンだったりします。
それも宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が題材とあっては、見逃せません。

朗読を挟みながら、汽車の窓から見る夜空は、宮沢賢治の見た夜空そのもの。
どこか懐かしく、儚いファンタジーの世界に、ちょっと切ない気分になりました。



今話題の映画、「国宝」も観てきました。

歌舞伎の知識が皆無なので、あまり語れることがないのですが、こう…芸に魂を削るというか、ともすれば「売り渡す」ような生き様の、生々しさに圧倒されました。

これ、何度も観に行く人はすごいな、と思います。
私は没入しすぎたせいか、一度きりで十分でした。

ちなみに主役二人と歌舞伎の話、というだけの前情報で行ったにも関わらず、何かを本能的に察知したのか、幕間が終わる頃にはもう帰りたくなりました(笑)

見終わって、その理由がわかりましたが…どうも、私はあるものを想起させるものがニガテなようです。

(ここら辺は若干中身に触れるので、伏せておきます)



したいことは数多くあれど、まだエネルギー的に起伏があるため、一日中お布団の住人でいたこともありました。

こればかりは仕方ないとして、それでも少しずつ私の魂としての、本来のあり様に戻りつつあります。

「したいこと」が増えてきて、カラダ・ココロに沿う喜びが以前より増えてきました。
思いの外、これまでは相当ガマンを重ねてきてしまっていたんだな、と思います。
でも本来、「したい」こと、自分に沿うことは自由であり理由なんかいらないはずです。

自分でややこしくし過ぎたそのツケは、やがては精神を蝕むもの。
悲しいことに、死ぬまで気づかず終わる人もいらっしゃいますが、それを考えたら気づけた人は、それだけ幸運なのだと思います。

ゆっくりでいいから。今の自分にできることだけを。
怖がらないで、少しずつでいいから。

「自然に・本来の自分に戻る」とは、過去の自分を否定することではなく、そこで積み重ねてきた実績も含め、全てを我が身で受け入れることなのだな、とうっすらと感じます。


今はまだ「過去」に囚われたままの部分がありますが、夏が終わる頃には、そんなのも忘れて涼しい秋風に吹かれたいと思うものの、昨今は秋も短くっていけませんね。


お月見までには何とか回復できたらいいな、と期待しつつ、しばらくはゆるゆるペースになる所存です。